これは、人生最大級の失恋をした、とある男の物語――。
黒田と名前は8回別れ話をした。
いつだって心底嫌になって別れたはずだった。
喧嘩別れをした直後は、相手の何もかもを思い出したくないほど腹を立て、5回目の別れ話のあと、黒田は名前が買ったペアグラスを割った。名前は黒田が愛用していた枕を捨てた。6回目は写真のデータを削除したし、8回目はペアリングを処分した。
でも、少し時間が経つだけで何に腹を立てたのかも、何故喧嘩になったかも忘れ、美化された思い出に浸り、別れから再交際までの期間は区々だが、いとも容易くまた手繰り寄せ会う。
8回別れたあとの9回目。
またヨリを戻そうと話すつもりだった黒田に対し、名前は予想外の未来を用意していた。
名前は黒田ではない別の男と結婚する――と言った。
黒田は『おめでとう』と言えなかった。
名前の披露宴の招待状は黒田には届かなかった。そのくせ、高校時代の同級生は招待されている。
そりゃあ、同じ高校を卒業したのだから当たり前のこと。元カレだけ呼ばないのも、当たり前のこと。
だが、嫌味なほど良く晴れた日、黒田はチャペルの前に居た。この日のために新調したスーツを着て、然も参列者のように同級生の輪に居るのだ。
招待状がなくても『参列者』らしい装いをしたら入れてしまう式場のセキュリティの緩さに黒田は感謝した。
「おおー、黒田じゃねえか。久しぶりー」
「先月の同窓会ぶりだから、そんな言うほど久しぶりじゃねえだろ」
式開始ギリギリに来た同級生が肩を組む。その後ろから、
「黒田くん……来たんだ」
泉田も到着した。
黒田と名前の関係を良く知る泉田は怪訝に眉を寄せた。
「めでたい日になんつー顔してんだよ、泉田」
泉田は黒田の腕を引っ張り、同級生の輪から離れると、声を潜める。
「ボクがこんな顔するのはキミのせいだろ。……何を企んでいるんだ?」
「何も。ただ……オレの手の届かないとこに行っちまう名前を……誰のもんでもねえ名前を最後に見たかっただけだ」
「本当にそれだけか?」
「なに想像してんだよ? あれか? 昼ドラか?! 式の途中でドアバーンして花嫁拐っちまうあれか?! お姫様抱っこして逃げる泥棒猫か?!」
黒田は口角を上げ、饒舌に振る舞ったが、泉田の表情は晴れない。
「いつもよりキレがないし、なんかくどいな」
「歳なんだよ、バーカ」
「見くびるなよ。何年一緒にいると思ってるんだ」
「……止めるか?」
黒田は無理して飾った表情を解放した。そして出来上がった今にも泣き出しそうな顔を伏せた。
「オレは……名前以外のヤツと未来を描いたことなんて一度もなかったんだ。何度別れたって、それだけは変わらなかったんだ……」
黒田の左右の目尻から一粒ずつ溢れた涙は、スーツの襟元に落ち、生地が吸い込む事なく、丸い形を保ちながら、ずるずると、止まったり、速度を上げたり、左右に蛇行したり。臍の辺りまで転がると、二つの粒がくっ付いて一粒になった。
たったこれだけのことで、決心がついた黒田は顔を上げた。
泉田は黒田の肩に手を乗せ、
「行こう、もうすぐ式が始まるよ」
黒田の胸中を察し、共犯になる覚悟で背中を押した。
花嫁の入場の瞬間は、その場にいる全ての人の視線を独り占めする。
ベールの下、名前は穏やかに微笑み、ヴァージンロードの先を見つめた。気を緩めると、頬が痙攣しそうだった。
この結婚に、全てを捧げる覚悟はまだ出来ていないのだ。
高校から付き合ったり別れたりを繰り返してきた黒田には、あれほど簡単に女としての輝く時代を捧げられたのに。どんどん衰退していく自分自身への焦りと、周囲の婚期の波が重なって、黒田と別れた直後に交際した男と何の衝突も障害もなくあっさり結婚するのだ。
名前にとって、黒田と最後に話した日が、最後の賭けだった。
もし、あのとき、結婚するな、オレのところに戻ってこいと言われれば、今日、ウェディングドレスを着ていなかった。
黒田は名前と結婚する気なんてなかったのか。
この結婚に後悔はない。後悔出来るほどの実感もなかった。
父親の腕に引かれ、一歩踏み出したとき、名前の瞳はある一点に奪われた。足が止まった。周りの祝福に満ちた眼差しも、数歩先で照れ臭そうに微笑む新郎の存在も忘れ、どこか冷めたように目を細め、名前を見つめる黒田の姿を見つけたのだ。
一瞬で、ここ何年分かの記憶が目まぐるしく脳裏を駆け抜ける。
この期に及んで、名前が思い出すのは、黒田と過ごした幸せに満ちた何気ない日々のひとコマたち。散々泣いたし、ヒステリックに怒鳴り散らしたこともあったのに、何故、思い出せないのだ。
今すぐ黒田の元へ走り出しそうな衝動に駆られるが、父親が正しい道への案内人のように名前を新郎の元へ連れていく。
――もう、戻れないところまで来てしまったのか。
名前の涙目は端からみれば感涙を堪えるように映っていた。
その真の意味に気付いたのは泉田だけだった。
「――さんを夫とし、神の導きによって夫婦になろうとしています。汝、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも――」
神父が名前へ問う。
「共に助け合いその命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
これは用意されたただの形式の言葉。その場しのぎに嘘を吐いたって、誰かに咎められることはない。
それでも、名前は口を噤んだ。
黒田の前で、誓いたくない。尊崇される神という存在より、黒田の存在が嘘を吐くことを拒ませた。
新郎が心配そうに名前の顔を覗き込む。そして、式場内が僅かにざわついた。新郎は視界の端、人の気配を感じて振り返った。つられて名前も振り返ると、真後ろに黒田が立っていたのだ。
「……誓うの? 誓わねーの?」
「な、なんだ?! 今、式の最中だぞッ?!」
「すんません。ホント……ひっでぇことしてる自覚はあるんすけど……。なあ、名前……。……誓うなよ」
黒田は一歩下がって、名前と距離をあけた。
「連れ去るつもりはねえんだ。だから、自分で歩いて来い」
いつだって、最後の最後で選択を誤ってきた黒田は、もう間違えたくなかった。
責任を押し付けるようだが、二人の道を片方どちらかが決めてしまうから、歪みが生じて、違えてしまう。だから、名前の意思を尊重しよう。
でも、これだけは間違えない。
「こっちに来るなら――」
黒田は片手を出した。
「しっかり掴んで歩いてやる。間違った道だって、オレが最果てまで一緒に歩いてやる」
「……たっく。遅すぎ。遅刻魔か。道草大好きメガネくんか。私は猫型ロボットじゃない。なんでも叶えてあげられないよ」
名前は長年連れ添った黒田の言い草を真似てみせる。
迫り来る拒絶に、黒田は差し出した指先が震えていた。
「そっちの道は出だしから間違いだって分かってるのに……。なんで進んじゃうかな、私」
名前の頬が自然に上がる。
グローブを外した指先で黒田の手を掴んだ。
「ごめんなさい」
頭を下げた名前の悲しそうな、それでいて胸を焦がしてしまいそうな微笑みがあまりに美しく、花嫁衣装が良く似合っていて、新郎は呆然と見惚れるしかなかった。
名前はベールを引き剥がし、ドレスの裾を持ち上げた。
「さあ、行こう」
我に返った新郎は黒田と名前の背中に向かって、取り乱した罵声を飛ばす。
名前の両親は後を追おうとしたが、娘の幸せに満ちた横顔を見て足を止めた。
つい先程、名前が入ってきた扉の向こう側へ二人が消えて、騒然とする会場内で、泉田はひとり祝福の拍手をした。
二人きりで歩き始めた道、
「これからどうするつもりなの? 私の人生ひっくり返っちゃったじゃない。バカ」
さっそく喧嘩口調の名前に、
「自分でオレんとこ来たんだろ?! オレのせいにすんな」
懲りずに応酬する黒田。
「職場の人とか呼んでたのに。私、もう会社戻れない。親も泣いてるかも。友達もドン引きしてるだろうね」
「だったら戻るか?」
「……ユキが最果てまで一緒にいてくれるんでしょ?」
「もちろん」
「なら、良いか」
指先が強く絡み合って、嫌みなほど晴れた空が二人の交わる道を極彩色に染め上げた。
「――とまあ、元カレにあっさり奪われたわけだ。プロポーズしたときに元カレが忘れられないって断られたんだけどネ。それでも良いっつって強行突破したからなァ、オレ」
男はウイスキーのグラスを傾け、呟いた。自身に降りかかった前代未聞の結婚式中断の悲劇を訊かされる友人は相槌以外の気の利いた反応が分からなかった。
「あのときああしてたらとか、もっとああすれば良かったとか、色々考えるんだケドォ……」
「けど?」
「そもそも名前ちゃんとオレは――」
男はやけに清々しく笑い、交わることなく過ぎ去った日々へ呟いた。
「どう歩いても道は違えたままだった」
fin.