困った。非常に、困ってしまった。視線を下ろす。わしの胸には一回りも二回りも、それよりも小柄な少女が抱き着いている。少女は何も言わないしわしも何も言わない。こんな状況がかれこれ5分は続いている。これは、本当に、困った。

少女は承太郎のクラスメイトというやつで、初めて会ったのが一週間前。学校をサボりがちな承太郎の為に学校行事やら保護者への案内やらの色々なプリントを家まで届けてくれたのだ。その時承太郎は家にはいなくて、ホリィも買い物に行っていて、玄関に出たのが丁度日本へ遊びに来ていたわしだったのである。少女はわしを見て固まり、言葉も出ないくらいに驚いていた。日本人はいつもそう。この巨体の所為かすごく珍しいものを見たかのような反応をする。まぁ、その反応が少し面白くもあるのだが。少女は呆然としていたが、ぱちぱちと何度か瞬いた後、その目に熱がこもったような気がした。僅かに顔が紅潮したような…?そう思った時、ホリィが買い物から帰ってきた。ホリィは少女を知ってるらしく「いつもありがとうね」とか「上がってって!美味しいお茶をご馳走するわ」とか言って半ば強引に少女を家に連れ込んでいた。わしは少女のあの目がなんとなく気になったが、それ以上は考えないようにした。

しかし、次の日も少女は家に来た。それも承太郎と一緒に。承太郎は今日、学校へ行った。それなのに何故プリント係の彼女が承太郎と一緒に?承太郎は何も言わず、少女も小さく頭を下げるだけである。ただひとつ気になるのが、やはり目だ。わしを見る目がどうも、熱っぽいのだ。

まさか、なぁ。

それは無い。有り得ないことだ。承太郎のクラスメイトということは承太郎と同い年、つまり17歳。そんな娘がこのわしに、そんな馬鹿な。確かにこのジョセフ・ジョースターはかなり魅力的ではあるが、流石に自惚れ過ぎだろう。考え過ぎだ。少女はそれからわしが帰国する今日まで毎日家に来たが、一言二言挨拶はしても会話らしい会話をすることは無かった。

無かった、筈だった。


「…あー、一旦離れてはくれんかのう」


細い肩がびくりと揺れる。離れるかと思ったが、少女は小さく頭を横に振った。顔を上げることもせず、そのままわしの胸に埋めている。肩を引っ掴んで引き剥がすのは簡単だ。出来ないことでは無い。だがしかし、少女はこうなる前、わしのいる部屋に入って来た時に、とんでもないことを言ってのけたのだ。真っ赤な顔をして、泣きそうな目をして、わしに向かって。

思い出をください、と。

帰ってしまう前に、どうか、お願いします、と。少女は叫ぶようにして言うや否や、わしに抱き着いて来た。そして、いまに至るのだ。ホリィはご近所の付き合いとやらで夜までは帰らない。承太郎は…いつ帰るかわからない。だが、多分承太郎はこの少女とグルだ。承太郎が少女をこの家まで連れて来て部屋を教えたに違いない。だから承太郎もきっと、夜まで帰らない。わしがこの少女に、思い出を与えるまでは。


(思い出をって…そりゃつまり、抱いてくれってことじゃないのかァ?)


その言葉の意味がわからない訳では無い。それは勿論少女もそうだろう。だからいま、顔も上げられない程緊張しているのだろう。しかし、しかしだ。当然それに応えることは出来ない。自分と少女は恋仲では無いし、何よりわしには妻も子も孫もいる。軽々しく「では一夜限りの夢に」なんて言えない。しかもいま夜じゃないし。昼だし。仮に結婚していなかったとしても、年齢の差が激し過ぎる。孫と同い年の女の子なんて犯罪じゃあないか。少女もきっと年上への憧れみたいなものでそんなことを言っているだけだ。外国人が珍しくて、顔も体格もいいから、ちょっとクラッときただけだ。気の迷いだ。だから、ここはかっこよく大人の余裕で言ってやらなくていけない。馬鹿なことを言っちゃあいけないよレディー、と。

しかし。


「…レディー、馬鹿なことを言っちゃあいけない」

「……」

「思い出だと?それは違う、いつか君がいまよりずっと美しいレディーになった時の汚点になる。こんなジジイにそんなものをねだった自分が恥ずかしいとな」

「ッ、そんなことないです!」


弾けるようにして少女が顔を上げた。大きな目は見開かれていて、少し濡れている。やっと重なった視線は、すぐに下を向いて逸らされた。しかしまた顔を上げると、今度は真っ直ぐわしを見つめてくる。その大きな目に吸い込まれそうだと思った。


「…ジョセフさんは、すごく、素敵なひとです」

「…ふむ」

「じ、ジジイなんて言わないでください…本当に素敵で、だから、恥ずかしいなんて思わないです…!」


赤い顔を更に真っ赤にして、耳まで首まで染めて、少女は言った。名前を教えた覚えは無いが、きっと承太郎が教えたのだろう。そう言えばわしはこの少女の名前を知らない。知りたい、と思ったことは無いが、名前すら知られていない相手によくここまで言えるなと素直に感心した。少女は何度か瞬くとまた顔を伏せた。わしの腰辺りのシャツを強く握り締めているのがわかる。わしは小さく息をついて、その手に自分の手を重ねた。少女がまたびくりと揺れる。細い首筋に目を落として、口を開いた。


「帰りなさい。わしのことも忘れた方がいい」

「…っ…」

「──ここまでは、タテマエじゃな」

「…え、わ!」


前触れもなく小さな身体を抱き締めると、少女は間抜けな声を上げた。想像していたよりもずっと細くて小さい。ホリィもわしよりは小さいがここまでではない。そこは西洋人と東洋人の違いだろうか。元々の造りが全然違う。顔も、首も、肩も、手も、腰も、足も、全部が小さい。少し力を込めれば簡単に折れてしまいそうだ。抱き締めたまま頭を撫でてやると少女はまた大きく揺れた。あんなに大胆なこと言っておいて、そこまでびくびくするとは。つい吹き出してしまった。


「ありがとう。気持ちは本当に嬉しい。そんな情熱的な告白は初めてじゃ」

「…は、はい…」

「じゃが、君の望むものはあげられん。それはわかって欲しい」


ほんの少しだけ腕に力を込める。少女は震えていたけれど、こくりと頷いた。

こんな若い女の子が、こんなジジイを好きになってくれること自体夢のような話だ。わしが若い娘に目を奪われるのなら兎も角、この少女のような子がわしみたいなジジイに惚れてしまうなんて周りからは笑われてしまうだろう。有り得ない、馬鹿なのかお前はと、言われても仕方の無いようなことだ。それなのに少女はわしを素敵だと言う。わしを好きでいることを、恥では無いと言ってくれる。思い出をとねだることも、それはそれは勇気のいる行動だったはずだ。小さな身体から張り裂けんばかりの大きな鼓動が伝わってくる。強ばっていたけれど、少しずつ力が抜けていくのがわかった。


「…君の住所を訊いてもいいかね」

「えっ?住所…ですか?」

「手紙を書くよ」


わしを見上げてくる目が、大きく見開かれる。その目はすぐ潤み、大粒の涙がこぼれた。右手でその涙を拭うけれど、涙は次から次へとこぼれ落ちて、止まらなかった。


「わしはニューヨークへ帰るけれど、君と出会えたことを思い出として、手紙を書こう」

「…ほんとうに…?」

「off course! それとも、ジジイと文通は嫌かの?」

「そ、そんなこと!」


少女は千切れそうなくらい首を横に振った。それから両手で口元を押さえて、またぽろぽろと涙をこぼしている。よく泣く子だ。そう思っていると、少女は小さく「やっぱり素敵ですね」と呟いた。そうじゃろ、と言うと、少女はふふっと笑う。あ、と思った。笑った顔、初めて見た。まるで吹っ切れたかのように、少女は柔らかく笑っている。

その笑った顔の、なんとまあ、可愛らしいこと。

少女からそっと目を逸らし、小さく息を吐き出す。わしがあと30歳、いや20歳若ければ、手を出したかも知れんなあ、なんて。スージーから怒鳴り散らされそう。微笑む少女の頭を軽く撫でる。少女は涙を拭き、またわしの胸に顔を埋めるのだった。

帰国後に手紙を出して、返ってきた封筒に真っ赤なハートのシールが貼ってあるのを見たスージーから問い詰められたのはまた別の話。

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