三月二日

 おじさまは目を覚ましません。脳波に異常はないということですので、きっと精神的なものだろう、とお医者様は仰っておりました。
 正直、おじさまが何をなさって、こうなられたのかなんて興味はあまり、ありませんの。我ながら薄情で無関心ですけれど。
 それよりももっと大切なのは、おじさまが目を覚ますことですわ。
 どこかに行っても必ず帰ってきてくれる、と約束したのは彼の方ですのに、こうして身体だけ帰ってこられても困ったものです。
 私は、まだまだたくさんおじさまに習うことも、倣うこともありますのに。
 怖いのはこのまま目を覚まさないのではないかと一瞬でも思う自分がいること。
 必ずお帰りになるという約束を不安の影で曇らせる私がいることですわ。
 ……お戻りにならないならば、私が連れ戻すまで、と胸を張れたら良いのですけれど。


 レイチェルは震える手でピリオドを打ち、日記を閉じた。ずっと愛用している日記はもうぼろぼろだった。
 眠り続けるダニエルの横顔をそっと見つめる。
 少し、お痩せになりました……?
 そっと輪郭を撫でればざり、と髭の感触がしてはっとする。
 髭も整えて差し上げなくては駄目ですわね……。
 勿論髭など剃ったことないので誰かに聞かねばならないだろうが。
 そう思いながら指先を曲げ伸ばししてやる。こうしないと筋力が衰えてしまう。その内にちゃんとリハビリのやり方やマッサージの仕方も覚えなければ。
 レイチェルは切なげに眉を寄せてダニエルを見る。

「痕が、残ってしまいますわよ」

 点滴の針を見つめてレイチェルは言う。手の甲に刺さった針はガーゼで覆われていようと見ているだけで痛い。
 ぎゅ、とレイチェルは唇を噛み締めた。こうして自分が落ち込んでいては何にもならない。
 せめて、彼が目を覚ました時に笑顔でいなくては。
 そう思いながら窓辺に寄った。

「おじさま、今日は良い天気ですわ。ほんの少しだけ春めいてきましたの」

 そう言いながら窓を開ける。

「ほら、風がちょっと温くなりましたでしょう?」

 微笑み、ダニエルの横顔を見る。窓を開け放せば少しだけ病室の薬臭さも消えていった。
 レイチェルは椅子に座り、ダニエルの手を握る。

「おじさま、お分かりになります? 手が大きくなりましたわ、これでカードを手の内に隠すのも楽になりましたの。身長も少し高くなりましたけど、おじさまに比べればまだまだ低いですわ」

 手の甲を撫で、柔く微笑んだ。

「本当はおじさまぐらい大きくなりたかったのですわ。そうしたらおじさまがどこに行かれても、すぐに見つけられそうですもの」

 風が吹き込み、レイチェルの髪を大きく舞い上げた。

「……本当、おじさまったらすぐにどこかに行かれてしまうのですもの。私、分身でもして、ずっと見張っていたいですわ。そうすれば私がおじさまの苦しみも何もかも分かち合いますのに」

 レイチェルは眉を歪めながら、微笑んだ。諦めたような表情だった。




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