理由だけでは動けない For no reasons 医務室で顔を合わせたアルフレッドに、この程度の傷なら全治一週間というところだろうと言われた。頬のガーゼは剥がせないが腕の包帯は制服を着てしまえばわからない。 ソナチネは最後にもう一度女子トイレの鏡を見つめる。酷い顔だ。生傷が絶えないのは仮にも戦闘職種だから仕方がないとして、形の良い眉根を緩く寄せた、どこか頼りなげな少女がそこにいた。 仕事に戻るのは二日ぶりになる。普段は書類作成段階になると仲間たちからは湯水のように文句や愚痴のようなものが流れ出し、それを宥め堰き止め押し戻し威圧して蓋をするまでに結構な労力を遣うはずなのだが、今回は何故か自分たちが率先して引き受けるからしばらく出てこなくていいとまで言い出した。――いや、『何故か』という表現は的確ではない。ソナチネはその理由を知っている。彼らは彼女を休ませてやろうとしているのだ。自分たちとて無傷では済まなかったというのに。 当初は作戦通り本隊突入と同時に後方へ下がるはずだったソナチネ班だが、そこへタイミング悪く戦闘区域に踏み込んだ市民がいると伝令があった。本来ならばもっと早くからされるはずだった避難勧告がうまく届かなかったのだろう。彼らが後退しながら避難させることになったのだ。敵との銃撃戦も数回あったがなんとか凌ぎ、彼らは無事に市民の誘導に成功した。――結果的には。 訓練を受けていない一般人、それも幼い子供と母親を連れているとどうしても移動速度が落ちることから、ソナチネは自分が囮になって時間を稼ぐと提案した。最前線から駆け抜けてきたせいで親子はかなり消耗している。男二人なら親子を抱えて一気に戦線を走れる。提案された二人は、三人でなんとか堪えて他の班と合流したほうがいいと主張したのだがソナチネはそれを却下した。 いいからさっさと行ってさっさと助けに来い。自分ひとりならば数分くらい生き残れる、そう言って彼らを走らせた。言い争う時間も惜しかった。彼らはやはりどこか納得いかないという顔をしていたが、視線を合わせると頷いて親子を抱え、砂埃の中へ駆けて行った。 必ず戻るから、それまで無茶をするなと、そう言い残して。 それからの時間は永遠のようにも、一瞬のことのようにも感じられた。 交戦中だった味方部隊に混ざって、敵陣のほぼど真ん中でひたすらに戦った。 じりじりと追いつめられ仲間とも引き離され銃弾も尽きかけて、気力だけで立っているのがやっとだった頃に、それは起こった。迂回してきた敵小隊に後ろを取られたのだ。これはさすがにまずいと、半ば覚悟を決めた時だった。 「――伏せろ。爆破する」 唐突に、不自然なほど明瞭に無線から聞こえた指示に慌てて身を伏せると、宣言通りに爆音が響き、大地が揺れた。 煙を吸わないように袖口で口と鼻を覆いながら顔を上げると、器用に敵だけを吹き飛ばし、空いた空間を悠々と歩み寄る影があった。 「U-8小隊長、ソナチネだな? 援護する」 無線ではなく耳に直接聞こえる声に目を凝らす。黒い髪と独特の肌色――東洋人? 制服を兼ねた戦闘服に身を包んでいることから味方なのは間違いない。ソナチネは小さく頷く。 それを確認すると彼は彼女に小銃を投げた。受け取ったそれは疲労の溜まった腕には重く感じるが、しっかりと抱え直す。弾切れのほうは瓦礫の山に棄てた。もうこれ以上持ち歩く意味はない。 「隊員が心配していたぞ。すぐそこまで来ているだろう。あいつらもだが、お前も随分無茶をしたようだな……自分の実力を把握することも強さの一つだ。過信は身を滅ぼす」 言いたいことだけ言って「構えろ。突破するぞ」と、向けられた背中に結局「あんたは誰」だとか、そんな簡単なことすら聞けなかった。 言葉通りすぐ隣の区画で仲間と合流することができたが、彼はソナチネを送り届けるとすぐにまた銃声の轟く方角へと飛び込んで行った。 そしてほとんど無傷で帰還したらしいというのは後から聞いた話だ。 彼の正体は、手当てを施してくれたアルフレッドに尋ねることで知った。苦戦の報告を受けて急遽増援として派遣された特殊飛行部隊のリーダー。目の前のアルフレッド、コードはメルシィと言ったか。彼もその一員で、戦闘にも参加したというのにこうして負傷者の治療までこなしている。格の違いというものを言外に見せつけられたようだった。 情けないところを見せたと言ったら、彼はそんな風には思いませんよと優しく笑われた。 「過信は身を滅ぼす……正論すぎて何も言い返せないわ」 彼がそう思わなくてもソナチネにとっては情けないことこの上ない戦果だ。自分の身も守れないようでは今後まともな任務が回ってこないかもしれない。 過信というのもあながち間違ってはいないのだ。年齢の割に数々の修羅場を切り抜けてきたからこそ今の彼女がある。多少の窮地ならば切り抜けられると、そう信じ切っていた。 ならこれから三人で強くなればいい。 過信でも何でもないくらいになればいい。そう言ったのはグリムだったか。あそこでソナチネを一人で置いていかなくても切り抜けられるくらいになるから、とリッパーも言った。二人とも火傷や裂傷だらけで、それでも彼女のところへ戻ろうと必死に走ったのだ。もちろん親子を安全な場所へ避難させ、控えていた医療班へしっかりと預けてから。 お互いをしっかりと信じられるように、三人で強くなろう。そう言って円陣を組むように手を重ねた。傷だらけのそれを、痛いほどに固く握りあって。 その時初めて、どれだけ二人にとって酷な仕打ちをしたかを知った。 蛇口を捻って冷たい水を掌に受ける。冷やした手で頬を包むと、身の引き締まる思いがした。 いつまでもうじうじしているのは性に合わないし、反省会ならば先程までうんざりするほど続いていたのだ。切り替えよう。今はとりあえず忘れる、と決めた。自分が変に意識してしまうと心配性の仲間がまた気を遣うだろうから。 「ソナチネ、少しいいか」 呼び止められたのは廊下に出てすぐだった。 つい数分前まで思い出していたのだから忘れるはずもない声にびくりと立ち竦む。 「……特殊飛行部隊『Nostalgia』隊長殿が、私に何か用?」 ゆっくりと時間をかけて振り返れば、記憶と寸分変わらぬ姿で彼はそこに立っていた。そして相変わらず悠々と彼女に歩み寄る。 「コードか名前で呼んでもらって構わない。ソナチネ」 「そう。ヘルだったわよね、確か。……で、何の御用かしら」 説教でもしに来たのだろうか。会社を辞めろだとか、これだから女はだとか、そういったことを言われるのだろうか。 そう思って身構えたが、次に彼の口から出た言葉は彼女の予想と遥かにかけ離れた内容だった。 「先日の任務の報告書を作成している。内容に誤りがないかチェックを頼みたい」 普通そんなのやるか? ソナチネは目を剥いたが彼は平然と書類の該当部分を見せてくる。しばし逡巡してから受け取ると、彼女と合流した時の件が事務的に書かれていた。チェックも何も、間違えようのない簡単な事実ばかりだ。随分神経質な男だな、そう思った。ソナチネは例えどこか他の部署と組んだ任務でも書類は自分だけで作ってしまう。 「間違いないわ」 ずいっと突き返したそれを彼は大判の封筒に仕舞う。「そうか。手間を取らせたな」ぺこりと頭まで下げられるものだからソナチネはまたぎょっと目を剥いて彼を見た。 「何なのあんた」 「何がだ」 「だって、私はあんたに助けられたのに」 「それがどうした」 どうしたと言われると非常に困るのだが。それでもこれは何か違うだろう。それだけは断言できた。 「なんで私の方が態度でかいのよ、なんで頭なんて下げるのよ! 謝りにくいじゃないのもっと偉そうにしててよ!」 言ってることが無茶苦茶だという自覚はあったが整理している余裕はなかった。口は回るほうなのだが調子が狂っている。やつあたりだ、完璧に。女のヒステリーは厄介だとよく耳にするが、あれは確かに当たっているような気がする。まさに今それをやっている自分で言うのも何だが。 「……すまない」ノヴァは反射的に謝罪を口にする。 「だからなんであんたが謝るの! 謝りたいのはこっちだってのよ!」 ソナチネの言いたいことを一割も理解していないであろう表情をしたまま、ノヴァは考える素振りを見せた。 「何故俺が謝罪を受けなければならないんだ?」 「だから、この前の任務で助けてもらったじゃない」 なんだこの男は。一から十まで言わせるつもりなのか。すっとぼけた振りして実は確信犯なのか。だとしたらリッパーよりも数百倍性格が悪い。 「その……迷惑掛けて、悪かったわ」 「ソナチネ」 「……何よ」 彼は静かに首を振る。 「迷惑だとは思っていない。俺が欲しいのは謝罪ではない」 「じゃあ何なのよ」 お堅そうな顔をして「体で返せ」とでも言う気か。そこまで言ったらセクハラで訴えてやる。その前に一発殴る。「ごめんなさいも言えないなら私はどうすればいいのよ」と俯いたまま呟いた。情けなさばかりがこみ上げてくる。 「逆の立場なら、お前は『ごめんなさい』と言われたくて誰かを助けるのか?」 そう言われて、ふと考えてみる。 もしもグリムかリッパーが危険な目に遭っていて、それを自分が颯爽と助けられたとして。『ごめん』と項垂れられたら、やはり嫌かもしれない。 欲しい言葉はひとつだけだ。 顔を上げれば、彼は真っ直ぐにソナチネを見つめている。 たっぷり数十秒視線を彷徨わせたり口を開いては閉じたりしている間も視線を逸らさず、かといって催促もしなかった。 「ありがとう。……感謝します、ヘル」 「ああ、大した怪我がなくてよかったな」 ありがとう、の後はすんなりと言葉が続いた。ぎこちなくではあるが、微笑むこともできたと思う。それがソナチネにとって“欲しいもの”だった。笑顔で、『おかげで助かった』とでも言ってもらえればそれだけでいい。そのためだけに何度だって手を差し伸べることを迷いはしないだろう。 彼は満足そうにぽんぽんと髪を撫でて去って行った。 手加減が下手なのか、少し乱れた髪を手櫛で整えながらソナチネも歩き出す。 そういえばまだごめんなさいも上手く言えなかったあの二人にもお礼を言おう。そう心に決めながら、ほんの少し熱くなった頬を両手で覆った。 すっかり温まってしまった手では、もう冷却効果は望めないようだ。 fin |