「今日は、いつもより霧が濃いですね」

 高層階のマンションから覗く窓を見遣って、まだら色の皮膚を震わせた異界人のハウス・メイドがため息をついた。聞けば、あまりの霧の濃さに、此処へ来るまでの間に12回もの交通事故を目撃したのだそうだ。だいたい3回までは日常のことというのだが、さすがに2桁は大台だといって、彼女は黒目がちの目を細めて見せた。
 +++も続いて外を覗き込み、白く烟る街を眺める。太陽の光が届かなくなって3年。青空や陽光が恋しければ、この街を出て行くしかない。夜の闇と同じくらいに人の視界を殺す霧は、本日もHLのあらゆるものを覆い、隠していた。

 「まだ、夜かと思ったよ」

 起きがけのスティーブンがそう言ったのも無理はない。霧は濃く、わずかばかりに届く光すらを遮りつつあった。
 数日間家を空けた後、突然帰ってきたと思ったらそのままベッドルームへ直行し泥のように眠った彼が起きたのは、その霧掛かる昼過ぎのことだ。
 無精髭がそろそろ見苦しさを感じるレベルに突入しかけた顔でのそのそとベッドルームから出てきた彼は、帰ってきたときのよれたシャツとスラックスのままだった。普段は滅多に見ることのないそんな姿に、ダイニングにいた+++とミセス・ヴェデッドは同時に顔を見合わせる。

「あらあら、旦那様…いま、熱いコーヒーを用意しましょう、いえ、先にシャワーですわね」

 ダイニングテーブルで昼食を終えた+++の相手をしてくれていたミセス・ヴェデッドが、てきぱきとした所作で動き出す。スティーブンはというと、まるで墓から蘇ったゾンビみたいな顔でぼんやりそこに立っていた。

「おはよう、スティーブン。お疲れね」

薄手の短いワンピースのまま、ダイニングのチェアで膝を抱える。普段であれば「はしたない」と嗜める言葉のひとつくらいは飛んでくるところだが、ゾンビとなったスティーブンにはそんな余裕はないようだ。+++のはしたない格好にちらりと目線をやって、彼はそのまま倒れこむようにチェアへ凭れ掛かった。

「…+++、君、昨晩どこに行ってたんだ」
「家にいたわ、ゲストルームで寝たの」
「なんで」

 まだ隈の残る目元を二本の指で揉みほぐしながら、怠さを感じる低い声が+++を責める。
 髪はぼさぼさ、目元には隈、目付きは最悪で、いつも香るいい匂いの代わりに、汚れた人間のにおい。お綺麗なスティーブン・A・スターフェイズは留守のようで、代わりにそこにあったのは、疲れたただの男がひとり。そんななりでも+++の可愛いスティーブンに違いはないのだが、それとこれとは別の話だ。

「なんでって、だってスティーブン、シャワーも浴びずにいたんだもん。ひげもちくちくしてたし」
「仕方ないだろ、忙しかったんだ」
「わたしも仕方なく、寝心地の劣るゲストルームに行ったのよ」

 スティーブンはテーブルに行儀悪く頬杖をついたと思ったら、そのままずるずるとテーブルに突っ伏した。また眠ってしまいそうだ、と思いながら、黒い癖毛のつむじを指でくすぐると、虫でも払うかのように邪険にされてしまった。そのまま手を捕まえて、もう悪さができないようにとテーブルに抑えつけてくる。
 +++の手をすっぽり覆う大きな手は節くれていて、皮膚はすこし硬い。+++の手は捕まえられたまま、テーブルの上をずるずると引きずられ、うつ伏せられたスティーブンの額へたどり着く。手の甲に擦り付けられた前髪が、+++の皮膚に刺さった。
 おやおや。+++は緩む頬を内側から噛み締めた。こんなスティーブンはなかなか見られるものではない。まるで眠がる子供のような仕草ではないか。

 「…では、これで。バスルームにタオルを用意しておきました。冷蔵庫にはいつものサラダとチキンが入っておりますので」と控えめに声をかけてくるミセス・ヴェデッドは、とても「気の利く」ハウスメイドだ。+++はにっこりとよそ行きの笑顔を貼り付けて「気をつけて、特に車には」と手を振り、ちらりと視線だけあげたスティーブンがかすれ声で礼を言う。それを聞き届けた彼女は速やかに部屋をあとにした。
 奥の玄関で、オートロックのかかる硬質な音がしたのを聞き届け、+++はわざとらしく、思い切りため息をつく。

「あーあ。きっと、ひどい甘えただと思われたわ。だ、ん、な、さ、ま!」
「いいだろ、たまには」

 テーブルにうつ伏せたままくぐもった声がして、捕まえられた+++の指の間にふた回りも太い指がずるりと侵入する。皮膚の薄い部分を遠慮なくこすられる感覚にすこしだけ背中が粟立った。弱く握られたり、離されたり、態度と言葉でこうも分かりやすく甘えられたら、天邪鬼の+++だって悪い気はしない。
 +++よりも太い指が、1本、2本、…片方で5本、両手で10本。まだ捕まえられていない空いた指先で、くすぐるようにその一本一本を撫でる。

「あと、4日ね」

 コポコポと、コーヒーメーカーが心地よい音を立てている他は、何の音もない。ほとんど無音の部屋のなかで、その声だけがいやに大きく響く。スティーブンが+++の指をいっそう強く握って、小さな息をついた。

「そう。長い10日間だったが…あと4日しかない」
「4日もある、でしょ?大掃除は終わったのかしら」
「粗方。終わっていない分も含めて、尻尾は掴んだ。4日もあれば、終わるだろう」

 暗く忌々しさを含んだ声色で、スティーブンがまた疲れたように息をついた。
 そういえば、と+++は思い出す。どこかの国の迷信で、ため息をつけば幸せが逃げていくと聞いたことがある。だとすれば、スティーブンのなかにはもう幸せなんて残っていないかもしれない。スティーブンの吐き出した幸せは、ある一人の男のために現在進行形で消費されているのだ。

 クラウス・V・ラインヘルツ。

 スティーブンの、太陽の名前だ。
 +++は彼に一度だけ会ったことがある。それは偶発的なもので、きっと後にも先にもあの機会だけだろう。彼は燃えるようなたてがみをした、気高い獅子のようでもあり、気品溢れる大鹿のようでもあった。そのペリドットのような眼はまっすぐ前だけを見つめ、光り輝く自身の足元の闇を見下ろすことはない。
 なるほど、噂通りの人物だと無感動に思ったことを覚えている。+++は素敵なドレスの裾を上品に持ち上げて、一端のレディのように彼にご挨拶をしただけだ。
 この獅子のために、+++のあいする彼の幸せが、どんどん逃げて行っているのかと思いながら。

 ライブラのボスであり、スティーブンの太陽であるその彼がHLを離れて、10日目。
 一体どこから漏れたのやら、ライブラの筆頭戦力たる彼が不在との情報を聞きつけて、あちらこちらの「悪い組織」が動き始め、それに翻弄されながらようやっと10日間が経過した。
 誰が言い出したものか、彼が不在となるこの2週間…「極限の14日間」と呼ばれるようになったこの期間に悪さをしでかすのは、なにもライブラ外の悪い奴らばかりではない。
 どんな組織にも、悪いやつは紛れ込んでくるものなのだから。

「大掃除は、大変ね」

 絡まるスティーブンの指を撫でながらぽつりと零した声を拾い上げて、「そうだな」とスティーブンが微かに笑う。
 閉じられた睫毛がさらに隈を濃く縁取った。

 膝裏で押すようにしてチェアから立ち上がり、ダイニングテーブルの縁をなぞるようにスティーブンのほうへと回る。近付く+++の気配を感じ取ったスティーブンはすぐに+++の望みどおりに椅子を引き、彼女のための空間を作ってくれた。
 猫のようにそこへ滑り込み、ダークグレーのスラックスに跨る。その場所は最初から+++のために用意されてあったかのように、パズルのピースのように、+++の身体にぴったりと合っていた。
 向き合いながら太い首に剥き出しの腕を回すと、代わりに+++の腰へ、シャツに通された腕が回される。

「わたしとあいつらに任せて、スティーブンは休んでいてもいいのよ」
「…これはあくまで、僕の仕事だ」
「あら、ボスはどっしり構えて、下っ端に任せていればいいのよ。スティーブンいつもそう言ってるじゃない」
「僕はボスじゃない。そんな器じゃないさ」
「わたしたちにとっては、あなたがそうなの。…兄さま」

 無精髭の頬を包んで囁くと、スティーブンは困ったように眉を下げてしまう。その乾いた唇をそうっと食みながら、+++は目の裏に銀の月を思う。

 スティーブンの太陽は眩しい。その眩しい太陽が、光ゆえに形作る色濃い闇に気付かないよう、彼はずっと身を粉にして真摯に尽くしている。その行いに苦悩し葛藤しながら、それでも迷いなく決断し断罪するスティーブンのことを、彼の太陽は知ることはないだろう。
 同時に、スティーブンも知ることはないのだ。もっと暗い場所にいる者にとって、夜を照らす眩しい月がここにあることも。白く烟る街において、太陽ばかりが指針ではないことも。

 躊躇いがちに差し出される舌を舐めて、薄く開いた唇の中に水を求めながら、スティーブンのため息を飲み込む。
 このひとが、ため息をつかずに、彼の太陽と同じように何にも知らずに光のほうだけを向いていられるようにしてやりたい。そう思い続けていったい幾夜がたったのか。未だ、白い霧が晴れることもなく、彼の幸せは漏れ続けるままだ。
 この息を吸い取って、返してやってもなにも変わらない。どうやっても、ここから吐き出される幸せをこの人に返してやる方法なんて、+++には思いつかないのだった。

 夜明けはまだ遠く、見えるのは月ばかりだ。




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