スティーブン・A・スターフェイズは女性に好かれる。

 意志の強い眉と、柔らかいブルネット、目尻は相手の警戒心を解きやすいように垂れているのに、少し目線を横にずらせば危険な香りのする鉤裂きの傷痕が目に入る。男らしく、しかしむさ苦しくない程度に筋肉の張った首元には、バーガンディ・レッドのタトゥーが見え隠れしている。清潔な印象を与える、ダークグレーのスーツにはシワひとつなく、長身を支える脚は長く、足下には磨かれた革靴。
 口を開けば、癖のあるテノールが、美しいイギリス英語を紡ぎ出す。時折、気を抜いた時に出るスペイン語訛りは、逆に親近感を高めてくれる。ウィットに富んだ会話で惹きつけ、相手の心の隙間をくすぐるのが得意で、第一印象で彼を嫌う人間のほうが少ないだろう。
 だがそれらが、彼の社交術のための仮面であり、その内側にはもっと別のものを隠している。+++は最近ようやく、その仮面の内側を覗くことができるようになった。

「ねてる…?」

 その日、仮眠室を訪れたのは偶然だった。つい昨日、前日の疲れに耐えかねて仮眠をとったのだが、腕時計を忘れたことに気がついた。鍵のかけられていない部屋に、誰もいないと判断して入ったはいいものの、そこには既に先客がいた。
 驚いて声を上げなかったのは奇跡だ。仮眠室のソファに、長い手足を持て余すようにして仰向けに横たわっていたのは、スティーブンだった。閉じられた目元を隠すように手をのせて、規則正しい寝息が薄く開いた口元から漏れ出ている。
 すぐに扉を閉めて離れなかったのは、スティーブンの胸元に置かれた手に、+++の腕時計が握られるようにかかっていたからだ。

 どうしよう。でも、起こしたら悪い。

 考えたのは一瞬で、音を立てないように扉を閉めはじめる。その時に、ソファから小さく掠れた声で「入っておいで」と呼び止められた。
 閉めかけた扉を小さく開けて確認すると、手の置かれた目元から、鳶色の瞳がこちらを見ていた。やはり、起こしてしまったようだ。

「おいで。人質がどうなってもいいのか?」

 先程呼びかけた時よりは少しだけ張りのある声が、+++の腕時計をチャラチャラと揺らした。口元は悪戯っぽく歪められている。もしかしたら、最初から寝てはいなかったのかもしれないと思いながら、+++は大人しくスティーブンの要求に従った。
 +++がソファの側に近付くまで時計を揺らす大きな手を見ながら、まるでルアーフィッシングのようだ、とぼんやり考える。きらきら揺れる餌につられた魚のように近付いた+++を、案の定、スティーブンは釣り人のように捕まえた。
 腕時計は返されることなくスティーブンのポケットにしまわれ、先程まで時計を揺らしていた手が+++の腕を掴んで引っ張る。もう片方の手で背を捕らえられ、+++は咄嗟に腕を突っ張りスティーブンから身体を離した。…羞恥のために。

「…まだ恥ずかしい?」
「す、すいません」
「いいさ。そういうところも気に入ってる」

 スティーブンは眠そうに緩んだ目元をさらに細めて、仕方ない子だ、と子供をみるようにため息をついた。

 つい先日、このたび、スティーブン・A・スターフェイズは+++の恋人になった。もう殆ど、絶対に無理だ、というところからの逆転勝ちみたいなものだった。
 +++のほうが好きで好きでどうしようもなくなり、これまでの良好な上下関係の破綻もやむなしという決死の覚悟で、この高嶺の花たるスティーブン・A・スターフェイズに挑み、呆気なく敗退した。…と思い込んでいたところに、9回裏で逆転ホームラン、というような僥倖だった。
 正直に言うと、このひとが+++のことを恋人にした理由もわからないし、今でも信じることができない。近付けば前にも増して心臓が走り、もう他のメンバーに隠し通すのも困難になって、+++はむしろ恋人の座におさまる前よりも、スティーブンから距離をとるようになってしまっている。

「仮眠中にすいません、あの、休んでください。ソファじゃなくてベッドのほうがいいです」
「ベッドに?昼間から大胆だな」
「ちがいます!ベッドに行くのはスティーブンさんだけ!」
「君、顔がトマトみたいだぞ」

 火のように熱くなった頬はきっと真っ赤になっているのだろう。それを揶揄されて、ますます顔が熱くなった。「で、冗談じゃなく、抱き枕になるつもりは?」と聞かれて思いきり首を横に振ると、スティーブンは頭をソファにぼすんと戻し、音だけは不満げに息を吐いた。

「つれないな。前はこれでもかってくらい、それこそ僕が白旗を振るほど熱烈に求めてきたのに。君もしかして、釣った魚に餌をやらないタイプ?」
「それは!スティーブンさんがあんまりからかうから!」
「からかってないさ、本気だ」

 耳の後ろをくすぐるように撫でられて、+++はこのままでは心臓が破れて死んでしまうのでは、と思った。そんな+++の心情もまるっきり無視して、スティーブンはどうやら+++の反応を楽しんでいるようだ。赤くなったり青くなったり、スティーブンの一挙一動に振り回される+++の反応を、面白がっているとしか思えない。
 その証拠に、口調は拗ねたようでも、顔はにやにやと笑っている。

 「もう、寝てください」と赤い頬を隠すようにへたりこみ、ソファに顔を埋めながらつぶやいた言葉は小さく消え入りそうだったが、スティーブンにはしっかり届いたようだった。笑いを噛み殺したスティーブンが、大きな手で+++の頭を撫でる。

「+++、今晩あいてる?」
「あ、今日はバイトのみんなと食事にいきます」
「本当につれないな…」

 頭をぐたりとソファに預けたまま苦笑しかけたスティーブンが、ふと何かに気付いたように、「なあ、+++」と真顔になった。ソファから顔を上げてスティーブンを見上げると、こちらをじいと覗き込んだ鳶色が至近距離で目に入り、また息が止まりそうになる。

「その飲み会って、あの男も来る?」
「あの…?」
「カード貰ってただろう、前に」

 真剣な顔で何を言うのかと思えば、スティーブンは、以前+++にカードを渡した相手のことを言っているようだった。その送り主がバイト先の同僚であることを、そういえば確かスティーブンにも伝えていたような気がする。
 本日出席するメンバーの名簿を思い出せば、そのカードの送り主もたしか参加するはずだった。

「来ますね」
「…ふーん。何時から?」
「18時からです」

 そう伝えると、スティーブンは片眉を上げて鼻をならした。彼が珍しく本当に不機嫌そうな顔をするものだから、+++も何となく悪いことをしている気分になってくる。
 「行ったらだめですか…?」と聞いてみると、鳶色の瞳が少しだけ見開かれた。

「いや、構わないさ。楽しんでおいで」
「よかった!」

 安堵感からいつもよりも大袈裟に喜んでしまった+++の姿をみて、スティーブンが何か思案するように目を細めた。
 +++は密かに、子供っぽかっただろうか、と内省する。スティーブンは大人の男性だ。本来ならもっと大人の、すてきな女性を隣に置くべき人間なのだ。スマートに、それこそちょっとスパイスのきいた言い回しでスティーブンに気を揉ませるくらいの上手な女性が似合うはずだった。
 +++がそんなことをくるくると考えている間に、スティーブンは胸ポケットから腕時計を取り出し、+++の腕を攫った。

「+++、僕は君の恋人になってひとつ気がついたことがある」

 する、と羽で撫でるくらいの軽さで、スティーブンの指先が+++の腕を滑る。くすぐったさに手を引っ込めようとすると、「逃げるなよ」と釘を刺された。腕時計のベルトが通され、革のそれを恭しくはめようとするスティーブンの口元は三日月型をしているが、目はどこか笑っていないようだった。

「僕は、自分自身をあまり女性に執着しない性質だと評価してきたんだが」

 尾錠止めのバックルを革が滑り、きつくもないが緩くもない、丁度いい位置で締められる。そのまま腕を解放しようとしないスティーブンに首を傾げていると、じい、と手首の内側を見ていた彼がいきなりそこに噛み付いてきた。驚きのあまりに、「うひい」と色気のかけらもない叫びが漏れたが、スティーブンは気にしていないようだ。
 じゅう、と音を立てて吸われ、舌がぬるりと手首を舐める。「な、なに!なんです!」と抗議する+++の声も無視して、ちゅ、ぴちゃ、と湿った音をたててそこを食べるスティーブンから腕を抜き取ろうにも、がちりと押さえられていては+++の非力ではどうすることもできなかった。

「君に対しては、どうも違うらしい」

 手首に唇をくっつけたまま、熱い息と一緒に、スティーブンの零れるような独白が聞こえる。はむ、と優しく唇で食まれたかと思うと、次には尖らせた唇で肌をなぞる。今まで腕に向けられていた鳶色の瞳が不意に+++を覗き込んできて、ただ手首にキスをされているだけだというのに、恥ずかしくて堪らなくなった。その羞恥が顔に出ていたのだろう、+++のその様子をみて満足したらしいスティーブンが、ようやく目まで笑った。

「君が僕のことでそうやって慌てたり恥ずかしがったり、喜んだりするのを見るのがとても楽しいんだ」
「い、いじわるですか…」
「…+++、君はこういうことに関してとても鈍感だから、分かるように言っておこうか。君は僕のことをまだ、そうだな…ザップの言い方を借りると、『番頭』だと思っているようだけどね」

 ふう、と息を吹き掛けられると、唾液に濡れた手首が冷えた。

「実際は、君を独り占めしたいだけのただの男だよ。君が四六時中僕のことばかり考えていてくれるって思うと、最高に気分がいいんだ…」

 ゆっくりと腕を引かれ、引き寄せられる。ソファから身体を起こしたスティーブンの吐息が、+++の手首から唇へと移動した。今度は腕を突っ張って避けることもできず、されるがままになってしまった。
 手首のときと同じように、二、三度かわいい音をたてて吸われたあと、尖らせた舌が+++の口の中に侵入してくる。予想外に向けられたスティーブンの独占欲と、とろけた口元のせいで、だんだんと正常な思考がほどけていった。
 このまま、抱き枕になってもいいかも…そう思い始めたときになってようやく、スティーブンの唇が離れていった。
 文字盤のガラスと+++の手首を指先で撫でながら、スティーブンは万人が跪くような色気の滴る顔で笑った。

「これは、虫除けだ。今夜は20時には切り上げて、僕の家に来るように」

 もっと早くてもいいぞ、と笑って身体を起こすと、へたり込んでいる+++の頭の天辺に口付けて、スティーブンはさっさと仮眠室を出ていってしまった。かつかつと小気味良く鳴る踵が遠ざかる音を聞きながら、+++はソファに顔を埋めて悶絶する。

 食事も終わった夜に家においでだなんて、やることなんてひとつしかないではないか。大声をあげてのたうちたい気持ちを抑えるのに必死だ。
 熱くなった頬に手をあてながら時間を確認しようと腕時計をみて、+++は今度こそ上がりそうになった悲鳴をどうにかして飲み込んだ。

 手首の内側に回った文字盤、そのまわり。腕の内側には手首を中心に、スティーブンによるうっ血痕でいっぱいだった。幸いなことに袖が長いからあまり明るくはない店内で他人には気付かれずに済むだろうが、これでは時間を確認する度に思い出してしまう…とそこまで考えて、それこそがスティーブンの狙いだということにようやく気がついた。
 独占欲云々や虫除けという話は、つまり、ここに繋がるのだ。

 スティーブンによる独占欲の散った手首を握りしめて、+++はぞわぞわと背筋を這うものの存在を感じた。
 女性関係にドライだと思っていたスティーブンから、こんな子供じみたことをするほどの執着を向けられているのだという歓喜と、これは+++を喜ばせ、丸め込むための作戦ではないかという不安、そして、所有を主張されてしまうことへの薄ら寒い恐怖。

 スティーブン・A・スターフェイズは女性に好かれる。
 「好かれることが当たり前の男」という仮面の裏側に隠れたスティーブンの本質は、もっときっと、別のものなのだ。
 それを知ることのできる喜びと不安で、+++の中は恋人になる前よりももっと、スティーブンでいっぱいになっている。言われなくたって、四六時中、頭を占拠するのは彼のことばかりなのだから。

 おそらくそれも、彼の手のひらの上でのことなのだろうけれど。




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