毎日飽きるほど病院に通っていた+++がぱたりと来なくなって数日。ようやくエステヴェス女史から退院の許可が下りた。「もう少しってところなんだけど、もうすぐ沈む時期だから。」さすがにこの病院と共に異界へ落ち、再度浮上するときまで待つことはできないスティーブンの状況を慮っての早期退院だ。
 「本当なら一ヶ月はかかる怪我よ。くれぐらも無茶はしないように」と小さいながらも迫力のある視線で凄まれれば、両手を挙げるしかない。

 家に戻ると、まあ当然だが、+++は居なかった。まだ持ち物が置いてあったところをみると出て行ったわけではないらしい。
 あれから一度も、+++の顔を見ていない。だが彼女からの差し入れだといって、毎日誰かの手でもってスティーブンの元にはコーヒーが届けられていた。病院では不味いコーヒーしか飲めないとぼやいたスティーブンの言葉を覚えていたのだろう。
 これからつがいを解消しようという薄情なαに尽くしているようなお人好しだ。そんなに甘くて、これから大丈夫なのかと不安にもなる。

 +++が戻ってきたら、あの日の続きをしなくてはならない。
 つがいの解消だ。忌々しい契約から+++を自由にしてやることこそが、スティーブンにできる最大にして唯一の贖罪なのだから。
 だというのに、いざ夜が近付くほどに+++に会うのが恐ろしくなる。

 つがいを解消すれば、+++はスティーブンのものではなくなる。もう誰のものでもなくなった+++は、誰のものにでもなりうるΩだ。安易に他のα性に捕まってしまわないようにしなければならない。そして、次に契約を結ぶときにはどうか運命のαと共に同意の元に契約をして欲しい。
 あんな無理矢理に結ばれたつがい契約ではなく、運命のα性と結ばれてくれればいい。
 +++に誠実で、優しく、乱暴なことをせず、第二性も関係なく彼女を幸せにできる誰かと出会ってくれればいいと、そう願っている。
 いつか、彼女のやわらかい笑みを受け取るに相応しい誰かのもとで契約が結ばれる日が来るはずだ。その誰かの歯が、舌が、+++のうなじに、スティーブンだけが許されていた場所に沈む、日が。

「くそっ」

 悪態が口をついて出た。彼女のうなじに知らない誰か、女だろうが男だろうがαだろうがβだろうが、知らない誰かの歯が突き立てられるとして、スティーブンにそれを止める権利はない。ましてやそれを、忌々しく思うだなんて。
 時計の短針はもうすぐ7に到達する。そろそろさすがに、+++が帰ってくる頃合いだろう。次に出会う時が最後だ。
 その最後の時を受け入れられない女々しい男が、他者より優れるといわれるα性であることがそもそもの間違いだ。

 スティーブンは結局、腹が減ったという理由で家を出た。つまり、+++と顔を合わせたくないというだけの話だ。
 まだ見ぬ+++の、未来で出会うであろうつがいに対して、殺したいほど嫉妬している。いま彼女に会ったら、苛立ちと嫉妬のままに+++の身体を喰い千切りそうだ。糞のような性だと心から思う。自分で別れを決めたくせに、まだこんなに迷っている。

 行きつけの店でカウンター席へ。
 殆ど不貞腐れながらジンライムを舐めていると、後頭部にゴリッと重い金属、銃口が当てられた。
 見知った気配と、いつも通りの挨拶だ。ほとんど常連となっているふたりのいつもどおりの物騒な挨拶だからこそ、バーテンダーも騒がない。

「狙う相手を間違ってないかい、K・K」
「いーえ、間違ってないわ。その頭に大穴空けに来たのよ、この甲斐性なし」

 今にも本当に撃ち出しそうな剣幕でスティーブンの頭に銃を突きつけているのは、金髪隻眼の美女だ。スティーブンが行きつけの店は、だいたいがK・Kにとってもそうなのだが、こうして鉢合わせてしまうのは珍しいことだった。合わせようと思わなければ、こんな偶然はそうそう起きない。

「僕に用事でも?」
「本当は会いたくもないけど、アナタみたいな腹黒男。わかってんでしょ」

 銃を懐にしまいこみ、スティーブンの横に乱暴だが優雅な所作で座るK・Kの前には、何も言わずともいつもの琥珀色が置かれた。この店のこういうホスピタリティが気に入っている。
 わかってるだろうと聞かれなくても、なんでK・Kがこんなところにいるのかくらい容易に想像がつく。+++はK・Kが特に可愛がっているメンバーのひとりなのだから。

「見てらんないから、アンタを殺せば解決すると思って来たのよ」

 +++と違い、K・Kの言葉はいつも辛辣で、かつ真実を突きスティーブンの鳩尾を抉る。その苛烈さがいまのスティーブンには心地よかった。

「返す言葉もないな」
「当然だわ。反論してきたりしたら殺すわよ」
「手厳しい」

へらへらと笑うと、K・Kの眉間のシワが深くなる。こちらを睨みつけるアイスブルーが痛いくらいに突き刺さった。

「で、解消するの?」
「さあ、そのつもりだけど」
「無責任な男」
「元々、事故みたいなもんだ。僕と+++とのつがい成立のエピソードなんて。…それも聞いてるんだろ」

 忌々しげなため息を吐き出しながら、K・Kは琥珀色を舐めた。普段は他人のこんな事情に首を突っ込もうなんてしない彼女なのに、こうやってスティーブンの前に来ているあたり、余程腹に据えかねているのだろう。これは、帰りに二〜三発殴られてもおかしくないなと他人事のように予想した。
 長い脚を組み替えて、K・Kの指がクリスタルカットグラスの縁をなぞる。

「今、αだのΩだのっていう話してるんじゃないわ」
「じゃあ、何の話かな」
「アンタと+++の話よ」
「つまり、僕と+++の契約の話だろう」
「違うわ。分っかんない男ね。伊達男って評判も返上した方が良いんじゃない」

 何にもわかってない、と苛立たしげに細い指がグラスを叩く。綺麗に紅を引かれた唇が歪み、アイスブルーが正面からスティーブンを責めた。
「知らないみたいだから教えてあげるけど」とため息まじりに、美女の追撃が続く。「講義かい?眠くなるから好きじゃなかったな」なんて軽口は無視された。

「アナタ、今までΩの発情期にぶち当たったことは?」
「そりゃあ何度も。HLは他よりαやΩの割合が多い。君だって同じなんだから分かるだろう」
「それじゃあ、発情期のΩにぶち当たって、無意識に噛み付いたりしたことは?」
「あるわけないだろう」
「そうよ。…だから、そういうことなのよ」

 小皿の上に乗ったオリーブを突き刺し、K・Kが続けた。ピックに突き刺されくるくると弄ばれるオリーブが自分のように見える。
 頬杖をつき、スティーブンから目を離したK・Kはさらにもう一つオリーブを突き刺した。

「普通はいくら発情期に当たったからって、我を無くしたりなんかしないわ。αだのΩだのなんて、あくまで"第二"性よ。私たちは獣じゃなく、理性ある人間なんだから。
 そんな人間が獣に成り下がる時って、どんな時か知ってる?」
「…さあ」

 紅の引かれた薄い唇の向こう側に、突き刺されたオリーブが消えてゆく。
 スティーブンからすれば、α性なんてみんなけだものでしかない。もちろん、スティーブン自身も含めてだ。そんなスティーブンの自嘲を察してか、K・Kの眉が吊り上がった。仕方のない男ね、そう言いたげに。
 オリーブの消えたピックの先端が、こちらへ突きつけられる。


「愛しい人に、求められた時よ」


 アイスブルーの瞳が吐き出したのは、まるでおとぎ話の一節のようだった。
 スティーブンは絶句した。
 こんな歳になって、愛だの恋だのと、そんなものを説かれる日が来るとは思わなかった。面食らいながらも、真っ直ぐ突き刺さる言葉と視線から、逃げることができない。
 ようやく視線を外し、氷の溶けかけたジンライムを覗く。そこに映るのは、何もかもから逃げ出したがっている情けない男だ。

「Ωだって同じだわ。普通、たかだか初めての発情期に出す程度の匂いで、近くのαの理性をぶっ飛ばすなんて芸当出来ないのよ。
 そんな+++がどうしてアンタを、理性と打算の塊みたいな男を狂わせたと思う?
 アナタ、第二性を呪いかなんかだと思ってるみたいだけどね。あんなのは、ただの特性だわ」

 そう言い切る隣の美女は、美しいだけではなく、強い女だった。身体だけではなく、魂そのものが。
 彼女はα性であり、そしてパートナーはΩ性だ。彼らには子供が二人いるが、第二性とは関係なく初めての子を産んだのはK・Kの方だった。最初の子供は第一性である女としてK・Kが授かり、次の子供は第二性であるΩとして、夫が授かったという。
 初めてそれを授かったとき、まだ膨らんでもいなかった腹をさすりながら、第一性を優先するか第二性を優先するかは本人次第よ、と言っていた彼女を思い出す。

「ここまで聞いて、それでもまだつがいの契約が〜なんて言ってるならとっとと別れなさい。そんな男に、あの子は勿体無いわ」

 残っていた琥珀色を一気に喉に流し込んで、来たときと同じように荒々しくもどこか優雅な、肉食獣のような動きでK・Kが立ち上がる。バーカウンターの向こうにいるスーツ姿の異形に向かって「勘定はこの男に」と親指で指し、赤いコートを翻した。
 コツコツとヒールが鳴る音が遠ざかるのに、見送ることもできない。
 情けないからだ。

 伊達男だのなんだのと言っておいて、このザマだ。K・Kの言いたいことは理解できた。
 つまり、そういうことなのだ。
 今までにも発情期のΩになんて出会うことは何度もあった。Ωの匂いにつられて強制的に発情させられるのは不快極まりなく、またスティーブンを落とそうとしたΩが、わざと発情期に抑制剤を飲まないままに会いに来たこともだってある。
 だがそのうちのどの機会にだって、理性も記憶も根こそぎ奪われて、気付いたら犯していたなんてことは、一度もない。そう、+++以外には。

 彼女だけが、スティーブンを獣の性に貶める。その理由を、ここまで言われて間違うはずがない。

 本当はもうずっと前から、彼女のことを求めていた。
 そして、彼女もきっとそうなのだ。

 でもだからって、遅過ぎないか。いいように利用して、勝手に悩み、勝手に縁を切ろうとした。身勝手すぎる男だ。K・Kの言う通り、本来は素直でかわいいあの子に相応しい男とはとても言い難い。
 ジンライムのグラスの底に、この期に及んでまだ迷いが沈んでいる。

「いつのときも、遅過ぎるということはありません。人の身には。」

 不意に、バーカウンターの向こう側から声がかかる。驚いて顔をあげると、そこに居るのはいつも通り、グラスを拭き上げている異形のマスターだ。
 視線を向けても彼は他に何も言わず、視線をこちらに向けることもない。まるで先ほど掛けられた言葉が、スティーブン自身の幻聴であったのかと思うくらいだ。

「遅過ぎることはない、か」

 ありとあらゆる誰かにこんなにも背中を押されて、それでもここで腐っているなんてらしくない。
 遅過ぎることはない、なんて気休めだ。十分彼女を傷付けた。
 だが、諦めるにはもう半歩。

「…マスター、もしかして人の心を読むとか、そういうスキルある?」

 スティーブンやK・Kさえも足繁く通わせるホスピタリティの所以を垣間見てそう訊いたが、スーツの異形は何も言わず、ただ静かにグラスを磨いていた。




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