その日、結局スティーブンは約束通り家に帰ることができなかった。

 いつもどおりに世界の危機を救う最中、いつもどおりに死にかけた。このヘルサレムズ・ロットという街は蓋の開きかけた地獄の窯のようだと、スティーブンは常日頃から思っている。窯の蓋が完全に開いてしまえば人界は未曾有の危機に晒される。それを防ぐのがライブラの役目ではあるが、時折何も知らないど素人がその窯の蓋に手をかけてしまうのだ。

 本日も世界の危機は、宅配ピザよりも簡単にそこかしこにデリバリーされる。どこかの馬鹿が別の馬鹿に唆されて神性存在を怒らせ、この魔窟の中央に空いた世界の大穴から魔獣を呼び出してくれたせいで、散らばった魔獣達との追いかけっこから始まり、それを完全に殲滅する頃には朝日が見えた。
 流石に疲れていたのだろう、もはや殲滅したとばかり思っていた、体半分しか残っていなかった魔獣の一匹が動いたのに対して反応が一歩遅れてしまった。窮鼠猫をというやつで、瀕死の魔獣はスティーブンの脇腹を抉っていった。

 そんな流れで不幸にも死にかけたが、幸運にも近くにいたK・Kに救助され、今は白い天井が眩しいベッドに磔にされている。エステヴェス女史の言うことには、1週間もすれば取り敢えずは退院できるだろうということだった。

「…本当は今日にでも退院したいんだけどね」
「だめです!退院したら絶対に無理するでしょう。どうせあと数日なんですから」

 病室内に、ふわりとコーヒーの香りが広がった。紙袋からスティーブンが頼んだカップ入りのコーヒーを取り出しつつ、+++はまなじりをつり上げている。
 安静にしていればいいだけだろう、と言っても、ドクターも+++も首を振るばかりだ。暇で暇でとても耐えられそうにないが、こればかりは仕方がない。一週間や二週間自分が居なくたって滞りなく業務は進むし世界も安泰だろう。
 枕に身体を沈ませながら目を閉じると、窓から入る光が遮られた。+++がブラインドを落としたようだ。

「あけたほうがいいですか?寝るのかなと思って」
「いや、このままでいいよ。…それより、この間は悪かった。結局、帰れなかったな」
「いいんです、そんなこと!無事じゃないですけど、スティーブンさんが生きててよかったです」
「死ぬかと思ったけどね」
「縁起でもないからやめてください」

 そんな他愛もない話をするのも久し振りのような気がする。つがいにして、家に置いて、+++を縛っているにも関わらず、スティーブンは何かと+++を遠ざけていた。
 昨日の事務所の様子、今日の昼食のこと、明日は本屋に行こうと思っていること、ころころと話題の変わる+++の言葉を聞いていると心の内側が柔らかくなっていくような気がしてくる。これもつがい契約による効果なのだろう。彼女をずっと、見ていたくなる。

 あ、わたしもう行きます、といって+++がバッグの中のスマートフォンを確認した時だ。見慣れない色のパスケースが目に入った。スティーブンがこの病院にぶち込まれる前には無かったものだ。
 スティーブンがそれを見つけたことに気付いたのだろう、黄色いレザーのパスケースを取り出して、+++がはにかんだ。

「これ、貰ったんです。いいでしょう!」
「目が覚める色だな」
「欲しい欲しいって言ってたの、プレゼントに」

 その後に続いたのは、スティーブンの知らない男の名前だった。+++は交友関係が意外に広く、スティーブンの知らない者も多い。普段ならば気にもならないようなことだが、前から欲しいと言っていた、という一言がささくれのようにひっかかる。
 +++は、スティーブンに対して何か欲しいものを伝えたことは一度もない。遠慮しているのは分かっていたが、本当に一度もだ。
 自分が一度もしてやれてないことを、名前も知らなかった他人が+++にしてやっている。その事実に、柄にもなく苛立った。

「プレゼント」
「そうなんです、前のボロボロになってたから」
「そうか。…その彼は、β?」

 ほとんど無意識に、言葉がこぼれた。
 これが完全に失言だったと気付いたが、出した言葉は引き戻すことはできない。怒るかと思ったが、+++は少しだけ困った顔をしただけだ。
 やはり、+++はスティーブンを責めない。今も、そしてこれからも、身勝手なスティーブンを決して責めたりはしないだろう。

 ブラインドの降りた部屋は、昼間だというのに薄暗い。+++は口元に困ったような笑みを浮かべながら俯いている。

「βです、あの、ただの友達」
「そうだろうな、君のつがいは僕だから」

 吐き出した言葉は思いのほか、自嘲の色が強く滲んでいた。スティーブンの不機嫌な様子を感じ取ってか、彼女は唇を軽く噛んで怯えているようにも見えた。
 スティーブンがαだから、Ωの彼女はこうして怯えるのか。

「君を、勝手につがいにした僕だ」

 小さな呟きのつもりだったが、まるで世界から音が消えてしまったかのような部屋では、ことさら大きく聞こえた。
 勝手につがいにしたαと、無理矢理つがいにされたΩしかいない部屋だ。
 第二性に呪われた契約でもって、一緒にいるしかないふたりの。

「スティーブンさん、あの、わたし」
「もう、やめてもいいかい」

 何かを言いかけた+++を遮って、今までずっと言おうと思っていた言葉を口にする。言おうと思っても、つがいの呪いのせいで言うことができなかった言葉だ。

「つがいを、やめてもいい」

 契約の破棄。これはα性にのみ許された特権だ。どんな条件であっても、つがいにされればΩ性は逃げられない。逃がしてやるかどうかはαの一存だ。
 つまり、スティーブンが解放してやると言わない限り、+++はずっと囚われたままなのだ。それをわかっていながらつがいにし続けた、これはスティーブンのエゴだ。
 いい機会だったかもしれない。このままダラダラと無理矢理繋げた身体と契約で、+++を縛り続ける非道に終止符を打てる。

「β相手なら、契約なんて気にせず普通に付き合っていける。僕のつがいとして、αの顔色を伺う必要もない。そうは思わないかい」
「スティーブンさん」
「どうだろう+++。君もそうは思わないか?
 僕はずっと、そう思っていたよ」

 酷い言葉だ。
 それは今までのふたりの関係を、木っ端微塵にする言葉だった。αとΩのつがい関係なんて、最初から木っ端のようなものだが。
 ブラインドから漏れる光で、+++の顔に縞模様がかかっている。俯いた彼女の表情は見えない。コチコチとアナログの壁掛け時計の秒針の音だけが響く。あとの一切は、ブラインドの向こう側に隠されていた。
 ようやく+++が口を開くまでの沈黙が、永遠のように感じられる。

「わたしがあなたを誘ったから、わたしのせいで、最初からずっとスティーブンさんを苦しめているって、本当はずっと、気付いてたんです」

 いつもはアーモンドのように快活に開かれている目が、涙で曇っている。そういう顔をみる覚悟はできていた筈なのに、いざ目の前でそうされると堪らなくなった。
 違う、そうじゃない、そんな顔をさせたかったわけじゃない、と全てを撤回したくなる。そうしてまで+++を手元に置きたくなってしまう。それこそが第二性によるつがいの契約だと分かっていてもだ。
 涙を拭って、その頬に口付けて、髪を梳いて、僕が悪かったと抱き締めたくなる。それがつがいに対するα性の性質だ。+++の意思を捻じ曲げ、スティーブンに執着させる呪いのような契約だ。

 ごめんなさい。
 ひどく小さな、傷付いた声でそう言うと、+++は俯いたままに部屋を出て行った。




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