彼は花京院典明のことをずっと見ていた。見ていた、というのは些か語弊がある……かもしれないが、とにかくずっとそばにいた。少年に物心がついた時から今の今まで一緒にいて、少年が成長するのと一緒に彼も大きくなった。彼はずっと花京院典明のことを見ていたから、少年が他人に打ち解けないことも、心の片隅に孤独を飼っていたことも知っていた。それは少なからず、自分に原因があるのではないかと思った彼に、少年はこう言った。

「べつに、きみがわるいんじゃあないよ。きっと、だれもわるくないんだよ」

 子どもらしくない台詞が強がりだと、すぐに分かった。なにせ彼はずっと花京院典明のことを見ていたし、それに、彼は花京院典明の一部だった。心に漂う、一抹の苦しさ。ふたりはそれを分かち合っていた、それこそ身を切り裂かれるほど痛いくらいに。彼は少年で、少年は彼だったからだ。
 だからあの時、邪悪の化身が心の隙間に滑り込んできた時、彼は典明のことを何度も呼んだけれど──そもそも彼は言葉を発しないが──、ついにその声が典明に届くことはなかった。悪の芽が深くなっていく度にだんだん彼も分からなくなっていき、いつしかこれが正しいことだと信じて疑わなくなった。そうして星と対峙したあの見慣れない保健室で彼女がひょっこり顔を出した時、あ、と典明が一瞬躊躇ったのを感じ取ったが、それも邪悪の化身を崇拝する心の中では無力だった。戦いに敗れ、自分を救ってくれた星の大切なものを守るため、そして恐怖に屈してしまった己の心の弱さを克服するために長い長い旅に出た。彼はずっと典明と一緒にいたから、最初は自分が傷つけてしまった彼女にどう接すればいいのか典明が悩んでいたことも、ともに過ごす旅のあいだ彼女に対しわずかに芽吹いた春のような感情が育っていくのを、彼は誰より、もしかしたら典明よりもよく分かっていた。

 あー、ようやく着いた。飯にしようぜ。

 座っているのも嫌になるほどの長い列車移動を終えて、くたびれ果てたように仲間が降りていく。典明は自分の右肩に頭を預け眠る彼女をどうやって起こそうか考えていた。ついには、さっさとしねーと置いてくぞ!と窓の外から聞こえてきた。重ねられていたその右手をほどき、彼女の頬に触れる。ほら、起きて。できるだけやさしくそう言えば、彼女はねむたそうにその瞼を開けた。うん……、と目をこすり立ち上がっても覚束ない足取り。そんな彼女を見かねて典明は手を出した。はやく行かないと置いていかれるぞ……そう言って差し出した少年の手に、彼女は迷うことなく右手を差し出した。重ね、やさしく掴んで列車を降りる。気恥ずかしい喜びに典明が人知れず心を弾ませたのを、彼は誰より分かっていた。

「…………、」

 食事を終えたあと、しばしテーブルで談笑を。長方形のテーブルの一番端に向かい合って、典明と彼女は座っていた。典明は隣に座る戦車やその向かいに座る隠者と楽しげに会話をしている。彼女だけはまだ食事を終えても眠たいのか、テーブルに頬杖をつき必死にまどろみと戦っていた。食後のコーヒーはとっくにぬるくなっていた。

「、」

 ぱち、と彼女がその瞳を動かし、彼と目が合う。とは言っても彼は星や戦車のそれと違って瞳があるわけではないから目が合ったというのは勘違いかもしれない。それでもしっかり視線が絡んでいた。そう強く言い切れるほどに、彼女はじっと彼を見ていた。そして、彼女の口角がふっとほころぶ。

「ねえ、今、笑ったでしょ」

 え?と典明が彼女に返した。ぼくがかい?と。ううん、と彼女は微笑んだまま首を横に振る。

「ハイエロファントよ。いま笑った」
「……そう、かな?」

 典明が訝しげに、それでも少し恥ずかしそうに彼に振り返った。自分自身を眺めるお互いの瞳、その彼の視界の隅で、彼女は笑っていた。花が咲いたような笑顔だった。それを見て、これから先もしかしたら自分はこの笑顔を忘れないかも、と、不思議そうにこちらを見上げる典明をよそにそう思った。だから、

「…ッ………、」

 だから今、彼女の笑顔しか浮かばないのかもしれない。両親のことを想い、仲間にメッセージを託した最期の翡翠の雨。視界には崩れゆく結界がまるで雪のように降り注いでいる。花京院典明の脳裏を走馬燈のように駆け巡るこの旅路。仲間ができた喜び、立て続けの死闘、その合間に彼女がくれた小さな癒し。最初はどう接すればいいか分からなかったこと、次第に打ち解け笑顔を見る度に惹かれていったこと、ちょっぴり喧嘩もしたけれど、いつしか彼女が何よりも大切な女の子になっていたこと。列車の中で自分の肩に頭を預けた寝顔も、砂嵐がひどいからとストールを貸した時に見せてくれた弾けるような笑顔も、人混みの中ではぐれないようにつないだ小さな手の暖かさも、仲間達の目を盗んでこっそりキスをした時の恥ずかしそうな顔も、なにもかもが滲んでいく。今まさに消えそうな命の灯火の前で、典明は彼女のことを想った。彼女は星と戦車と一緒だからきっと大丈夫だ、どうか無事で、生きて、しあわせに。

「…………」

 彼の視界も崩れていく。彼女を想い続ける典明の心が痛いほどに伝わる。すべてが崩れ、ぼやけ、色や形を失っていく。彼女を想っている。視覚も聴覚も触覚さえも無くなった世界にある、たったひとつ。愛だけがある、彼女のまま。



 ぼくのしんゆう


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