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▼ さよならデイドリーム

「生涯重なることのないあなたとぼくの唇について」の名前さんの過去のお話。このお話だけでも読めます。喫煙表現が苦手な方はご注意ください。







街灯も少ない住宅街の中にひっそりとある近くの公園。遊具は鉄棒と滑り台のたった二つしかない寂しい場所だけど、みんなに忘れ去られてしまったようなこの場所がなんだか居心地が良くて、入口のすぐ側にあるベンチに座って時間をやり過ごすために私はよくここに訪れる。今はいったい何時なんだろうか。どれくらい時間を潰せたのか全く分からない。携帯や腕時計といった現在の時刻を確認出来るものは持っていないから滞在時間を測ることは出来ないけれど、もういっそのこと家に戻ることなくこの暗闇の中に全身くまなく溶けてしまえたなら。そう考えながら足を伸ばして後ろ手に体重を支えながら何もない空間をぼうっと見ていると、家を飛び出す前に見せられた、物が飛び交う惨劇や怒鳴り合う声を思い出して胃のあたりがずしりと重くなる気がする。


「お前またここにいんのか」


僅かに足音がすると思っていたら、公園の入口を挟んだ外から声をかけられた。その人は公園に足を踏み入れて、近付いてくると私の正面に立ち見下ろしてきた。


「ガキがこんな時間に危ねぇって言ってんだろ」


鋭い視線を向けてくるけど私はそれを意に介さず、「仕事お疲れ様です」とスーツに身を包んだ彼に声をかけると「人の話聞いてんのか」と呆れたように溜息をつかれた。この公園の真ん前にある二階建てのアパートに住んでるユンギさん。アパートの駐車場からこのベンチはよく見えるみたいで、仕事帰りの時間に私がここにいるのを見かけると声をかけてくる人。開け口一番はいつも「お前またここにいんのか」だけど。初めてユンギさんと会った時は、ユンギさんが私を幽霊だと思ったみたいで「見ちゃいけねーもん見たかと思った」と初対面の相手に対して失礼なことを言ってきたけど、確かに夜の公園でただベンチに座ってるだけの女がいれば幽霊に見えるかもしれないなと後になって思った。

ライターのカチリと鳴る音がして、咥えたタバコに火をつけて彼は私の隣に座って煙を吐き出し、私はその白い煙が闇に溶けていく様を見つめた。


「最近帰り遅いんですね」

「あぁ、残業続きだ」

「そうですか、大変ですね」

「まぁな、お前もこんな時間に外うろつくな。親が心配すんだろ」

「……心配なんかするわけない」

「親と仲悪いんだったか」


良いも悪いも無い。あの人達にとって私は邪魔な存在で、置いておけばいつかは役に立つだろうくらいの気持ちで捨てたりしないだけ。その内いらなくなったら簡単に捨てて最初からいなかったも同然に生きていくんだと思う。毎日飽きもせずに喧嘩を繰り返す両親のあの殺伐とした空気から逃れたい気持ちはあるけど、中学生の私にはあんな親でも必要で、あの家が居場所であって生活のすべてだ。家庭事情のすべてをこの人に話したわけではないけど、どうして家から飛び出してこの場所に来るのかある程度は伝えてあるからユンギさんも多少は察して心配してくれている。
ユンギさんの質問になんと答えればいいのか分からず黙り込んでしまう。すると、タバコと混ざった淡い香水の匂いが鼻孔をくすぐり頭に優しい重みを感じると髪をくしゃっと撫ぜられた。


「こんな所に放置する訳にもいかねぇけど家に連れ込むのもアウトだよな」

「ユンギさん捕まっちゃいますね」

「あぁ、犯罪者にはなりたくねぇな」


そう言って笑いながらポケットから携帯灰皿を取り出して火をもみ消すユンギさんの目尻には皺が刻まれていて、真顔の時の若干の怖さをやわらげている。普通のサラリーマンなのに目つきも言葉遣いも悪いから一見話しずらそうだし、近寄り難い印象を与えるけど、いざ話してみると堅実で意外と温和な性格をしていて、何回かこうして関わりを持てばこの人は良い人なんだと理解するのは容易いことだ。その奥が深いユンギさんの内面を滲ませる笑顔が私は好きだったりする。


「お前飯ちゃんと食ってんのか?」

「まぁ、適当に」

「……母親は作ってくんねぇのか?」


目を細めてこちらを窺うユンギさんは神妙な面持ちをしていて、こんな表情もするんだなとまた新たな一面を知る。頷くことで返事を返すと、彼は「そうか」とだけ言葉を発して口を紡いだ。ユンギさんは下手な慰めの言葉をかけてきたりはしない。大丈夫だとか、あんな親もいつかは、とか望めもしない希望を挙げ連ねることはせずに、ただ隣に座って淡々と現状を聞くだけ。しかし、私にはそれがとても居心地がいいもので、誰にも言えない弱音を吐ける拠り所になっていた。


「そろそろ帰ります」

「あぁ」


ベンチから立ち上がり、二人並んで公園を後にする。ユンギさんのアパートの前に着き、ぺこりと頭を下げると「気をつけて帰れよ」と言われ見送られた。仕事帰りで疲れているのに、こんなあかの他人の子供に付き合わせて申し訳ないけど、きっと私が今こうして耐えられているのは彼のお陰なんだと思った。










とうとう父親が家から出て行った。数日のうちに消えていく父親の私物に喪失感なんてまるで無くて、むしろ少し広くなった部屋にせいせいしたしこれで繰り返されてきた激しい喧嘩も無くなるのだと思うと心が軽くなった。
しかし、僅かな安寧の日々もすぐに終わり家に見知らぬ男が出入りするようになった。母親が何処で引っかけたのか分からないけど、毎度違う顔が訪れては去って行き、タイミングが悪ければ情事中に出くわす事もあって、聞きたくもないあの女の昂ぶる声に耳を塞ぎ家を飛び出すことも増えた。娘がいることを知りながらあの家で致すことを躊躇わないなんて、あいつらもろくな男じゃない。
家出を繰り返しては公園に訪れ時間を潰すけれど、ここ最近ユンギさんに会うことが少なくなった。前から頻繁に会っていたわけじゃないけど、ここまで顔を見ないことは無かったから少しばかり寂しい気持ちになる。しかし、忙しい社会人の帰宅後の時間を奪うのも罪悪感が湧くし甘えてはいけないと自らを戒めた。




少し肌寒い日だった。今日も今日とていつもの如く自分の存在を無視し始まった野蛮な行為に気分を害し、外に出て公園に向かうとベンチには既に先客が居た。見慣れた姿態とタバコを吸う仕草。久しぶりに見る彼に無性に胸が熱くなった。


「どうしたんですか」


この公園に別段用の無いユンギさんが私より先にベンチに座っているのは初めての事で尋ねながら隣に座ると「おぉ、久しぶり」といつもと変わらない声で返された。


「ここにいりゃお前に会うかと思って」


わざわざ私と顔を合わせる為に来るかも分からない自分を待っていてくれたことに喜びが込み上げてくるけど、無表情を貫いて「そうですか」と素っ気ない受け答えをすると「可愛くねぇな」と笑われた。


「俺引っ越すから」

「……え、?」

「転勤」

「あ、……そうなんですか」

「一応お前に言っとこうと思って」


つまり、こうしてこの人に会うことも無くなってしまうのか。ユンギさんからしてみれば私との関わりなんて人生の中の他愛もない小さな出来事にしかすぎないのかもしれないけど、私にとっては少ない時間でも彼と話しているだけで安らぎを得られていたんだ。それを失うなんて、本当に私は幸せに見放されている。私がもう少し大人で、ユンギさんの役に立てるような人間だったなら、肩に重く伸し掛かる面倒なものすべてを捨てて、一緒に連れてってほしいと縋ることが出来たんだろうか。ただ、何も言わずに去って行ってしまうよりも、こうして顔を合わせて伝えてくれたことは素直に嬉しく思った。沈黙が続いた後、ユンギさんが口にしたのは「ごめんな」という謝罪の言葉だった。


「なんで謝るんですか」

「なんでだろうな、分かんねぇわ」


肩をすくめて笑うユンギさんの横顔をこっそり見つめてみた。引っ越す日に見送りに行ったり挨拶をするような間柄じゃないから、もしかしたらこの笑顔を見るのも今日が最後になるかもしれない。人の記憶なんて曖昧なものだから、いくら目に焼き付けたって時が経てばこの人の顔もぼんやりとしか思い出せなくなって、交わした言葉もいつかは忘れてしまうのだろう。それは私にも当てはまることだけど、ユンギさんだって同じだ。忙しなく日々を過ごしていけば、私のことを思い出す暇さえないかもしれない。『忘れないで』なんて言うことは出来ないけれど、せめていつかあんな奴もいたな、と思ってもらえたなら。


「餞別に何かくださいよ」

「餞別って普通はお前が俺になんか渡すもんじゃねぇのか」

「あげられる物なんて何もないです」


そう言った私をユンギさんは黙って見つめた後、ポケットをごそごそと探り取り出した物を、「仕方ねぇな」と手渡してきた。確認すると、それはユンギさんがいつもタバコを吸う時に使っていたライターだった。


「危ねぇことには使うなよ、未成年だからな、タバコもまだ駄目だ」


手の中にあるライターをぎゅっと握りしめて、分かりましたと返事をし、ありがとうございますとお礼の言葉を口にした。ユンギさんにとって市販のライターなんていくらでも変えが効く物なんだと思うけど、私はこれさえあればきっと、これからの毎日も耐えていける。家を飛び出してこの公園に来て、待っても待ってもユンギさんが来ることはなくても。





優しい言葉をくれるわけじゃないのに、ただ隣に座ってぽつぽつと会話をしてくれるのが救いだった。タバコを吸う仕草が好きだった。目を細めて笑う所も全部、全部。ユンギさんを最後に見たのは学校帰り。恐らく荷物はもう先に送っていて、後は車で引っ越し先に向かうだけであろう運転席にいる姿。私は立ち止まったまま、去っていく車を見つめユンギさんには聞こえもしない「さようなら」を呟いた。

いつか、私もあなたみたいな大人になれるだろうか。




title:青春










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