2.髪
「なあ主、それ俺にやらせてくれ。」
チュンチュンと鳥が囀るうららかな春の日。
私はいつものように布団から起き上がり、寝間着から仕事着へ着替える。
その後に歯を磨いて顔を洗って、さあ鏡の前で髪を梳かそうかと櫛を持った時だった。
近侍である日本号がいつの間にやら襖に手をかけてこちらを覗いていた。
「びっ…くりしました…。」
「ああ、悪い悪い、」
ちっとも悪びれた様子はなく、日本号はそのまま私の後ろに座り込んだ。
「で?やらせてくれるのか?」
「別に…構いませんが…、」
私は持っていた櫛を日本号に手渡す。
「急にどうしたというのですか?」
「ん、いや…、」
私の髪は腰くらいまであって、結構長い。
日本号は曖昧に答えながら、髪の下に手を入れそのまま持ち上げた。
しかし、その状態から動こうとしない。
「日本号…?」
「悪い主、これはどこから櫛を入れればいいんだ?」
「ええ…日本号も結んでいるでしょうに、」
「俺は適当だからな。」
やったことがないのだろうか…?
「そうですね、毛先の方から梳いてっていただけますか?」
「ん、…こんな感じか?」
いつもの力強いイメージとはかけ離れていて、日本号はゆっくりと毛先に櫛を入れていった。
ダマになっている所を丁寧にほぐし、通りをよくする。
「上手ですね、誰かの髪を梳いていたのですか?」
「いや、次郎太刀や乱のを遠目で見ていただけだ。」
「梳いてみたくなりましたか?」
「まあ、それもあるが…、」
なんだろう、はっきりしない。
こんな日本号は結構珍しい。
いつもなら白黒はっきりつけるようなタイプだと思っていたのだけど、意外とそうでもないのかもしれない。
ダマがなくなってきたのか、すっ、すっ、と櫛が髪を通るのが分かる。
「んで、こっからどうするんだ?」
「…徐々に上へと櫛を通していってください。」
「なるほど、」
そう言って日本号は一旦髪の下から手を抜いて、持ち直した。
ほぐれてきたせいか、するすると髪に櫛が通るのが気持ちいい。
「大分通るようになってきたな。」
「そのようですね、…もう終わっても大丈夫ですよ?」
「…もういいのか?」
「ええ、そのくらいでいいでしょう。」
櫛を回収しようと振り向くが、日本号はどこか渋っているように見える。
「…?どうしたのですか?」
「もう少し、…もう少しだけ、梳いててもいいか?」
「え…構いませんが、一体全体どうしたというのですか?なんか、日本号らしくないですよ?」
向き合った状態で、私は理由を問いかける。
「あんたの、」
とうとう観念したのか、日本号はそれはそれは苦い顔で理由を話し始めた。
「髪を、梳きたいと思った、」
「…私の?」
「…ずっと綺麗だと思っていたが、触りたいって思うようになっちまった、」
そっぽを向きながらそう話す日本号の顔は少しだけ赤い。
思いもしなかったような理由に、私も動揺を隠せない。
「そ、そうです、か…」
「…だからもう少しだけ、ダメか?」
「えっ!いや、どうぞ!」
そんな目で見られたら、はいどうぞとしか言いようがない。
私は赤くなっているであろう顔を隠すように日本号に背を向けた。
聞かなきゃよかったと後悔しても遅い。
清光や乱などにはよく髪綺麗だね、とか主さんさらさらだねー!とか言われるが、こう、なんか意外な人に言われると破壊力が凄まじい。
おかげで私の今の全神経は背中に集中している。
日本号はそのまま私の髪を梳かす事を続けており、櫛はだんだんと頭頂部へと進んでいった。
「ああ、やっぱり綺麗だ。」
暫くして、櫛を通す手が止まったと思ったら日本号はぽつりと呟いた。
そのまま髪を手ですくってみたり、ぱらぱらと落としてみたり、感触を楽しんでいるようだ。
最早私はこんな彼の姿に何も言えなくなってしまった。
見てるこっちが恥ずかしい。
ふと目の前にある鏡を目にした瞬間だった。
なんと日本号は私の髪に口をつけているではないか!
「ーーっ!!」
もう何もかも耐えられなくなった私は、その場に勢いよく立つとぽかんとしている日本号を置いて逃げるように部屋を後にした。
「…やりすぎた、」
取り残された日本号は主が出て行った後静かにそう言葉を零していた。
「(あれは反則でしょう…!!)」
ばたばたと廊下を走りながら心の中でそう叫んだ。
歌仙や蜂須賀に注意されるが、今は頭に入ってこない。
「(ーもうっ!なんなのですか!!)」
意外な彼が起こした出来事は、些細ではあるが私の中の何かを変えるきっかけになったのだった。