季節は進む。枝にしがみついていた葉は完全に落ちてしまった。窓の外はどんどん色をなくして、冬の訪れを告げていた。
僕はというと、一日の大半を床で過ごすようになっていた。結局、ちづるちゃんとのあのデートが最後の外出になってしまったわけだ。
「おはようございます」
「おはよう」
ちづるちゃんは今日もせっせと僕の世話をする。忙しなく動く小さな背中が無性に愛おしくて、僕は声をかけた。
「ちづるちゃん」
「はい」
君は振り返って、それからこてんと首を傾げた。今はもう見慣れてしまった君の癖。
「ちづるちゃん、僕は……」
たぶんこれが、最初で最後。誰かに想いを寄せるのも、告げるのもただ一度きり。
「僕は、君が好きだよ」
ちづるちゃんは少し驚いたように目を見開いて、それから笑った。日溜まりみたいなあたたかな笑顔に僕の心は満たされて、満たされた直後にもっとほしくなった。
「わたしも、すきですよ」
「でも、僕の好きと、君のすきはまた違うでしょ?」
ずっと分かってた。僕の想いと君の想いは似ているけど、決定的なところで異なっている。
それに君は気付いていなくて、悔しいからこんなことを言ってみた。それでもちづるちゃんはよく意味が分かっていないらしい。想定の範囲内だけどね。
「まあ、どっちでもいいけど、僕との約束は守ってよね」
「はい!」
ちづるちゃんはそう勢い良く答えて、それから少し寂しそうに笑った。その表情を見て、僕は瞬時に悟ってしまった。
……もうこの子はとっくに気づいている。僕の中に巣くう病の存在に。どの程度知っているのかは分からないけど、彼女は何も聞いてはこなかった。
僕も話さないし、彼女も尋ねない。互いに何も知らないことにして、だけど本当はちゃんと分かっている。そんな共犯関係は僕にとって心地良く、少しだけ切なかった。
守られることのない、決して果たされない約束。言ってしまえば嘘みたいなもの。
そんなものに意味なんかないって、人は思うかもしれない。だけど今の僕にはそれだけが生きる理由で存在意義なんだ。
彼女がいなくなったのは、それから一週間ほどあとのことだった。
毎朝僕を起こしに来るのに、いつまで経っても姿が見えない。呼んでも返事がない。嫌な汗が背を伝ったのをよく覚えている。
軋む体に鞭を打ち、ベッドから這い出て家中探し回った。もしかしたらまだ寝ているのかもしれないという淡い期待を持って訪れた彼女の部屋はもぬけの殻で、まるで最初から誰もいなかったかのように私物すらなくなっていた。
暫くそこで座り込み、彼女の痕跡を探していたらお手伝いさんが来て怒られた。かなり驚いた顔をしていたように思う。病人が寒い部屋で一人呆けていたのだから、当然といえば当然だろう。
それからは、ただ寝ては目覚め、そしてまた眠る。それの繰り返し。
段々と夢と現の境界線がぼやけてきて、嗚呼、僕ももうすぐなんだなと思った。
そんな折りに訪ねてきた旧友に、もしかしたらこれは夢?なんて聞いてみたら寝ぼけているのか、と返された。……たぶん現実なんだろう。
「で、どうしたの?」
「……それはこちらの台詞だろう」
一君は少し呆れたように言った。あんまりふざけると怒りそうだから、核心に触れてみる。
「誰から聞いたの?」
何を、とは言わない。僕にも彼にも分かり切っていることだ。
「あんたの姉上だ」
「そう……黙っててって言ったんだけどな」
少しの沈黙のあと、先に口を開いたのは一君だった。
「最初は海外留学に行ったと聞いた。だが夏休みもクリスマスも地元に戻ってこない、連絡先も分からない、そんなことが続いて何かおかしいと思った。ゆえにあんたの姉上を訪ねた。そこであんたがここにいると……それだけだ。」
話してる間、一君は一度も目を逸らさなかった。声こそ荒げないものの、ああ、これは……。
「一君、怒ってるの?」
「……当たり前だろう」
ふう、と深く溜め息を吐いてから一君は少し苦笑いした。珍しいものを見たな。
「あんたらしいと言えばあんたらしいが」
「そうでしょ?」
僕はいつもの笑顔で返す。ちゃんと笑えてたかは分からないけれど。
「……平助も知らないのだな?」
「鈍いからね、平助は」
「近藤さんは」
「姉さんが上手く誤魔化してくれてる。心配かけたくないし」
「……土方先生には…」
「何であの人に教える必要があるのさ。煙草でも吹かして肺真っ黒にしてればいいよ。」
一君は言葉を選んでいるのか、少し黙り込んでから口を開いた。
「……いいのか?」
「いいんだよ、これで」
「もう、時間がない」
「それでもいいの。しつこいね、一君」
考えたわりには率直すぎる物言いに笑みを零せば、一君は何とも言えない顔で僕を見ていた。別にそんな顔させたいわけじゃない。悲しんでほしいとは思わない。ただ……。
「一君、お願いがあるんだ。聞いてくれる?」
「何だ?」
「聞いてくれるのくれないの?」
「俺にも出来ることと出来ないことがある」
「ふふ、一君らしいね」
そう言うと少しむっとしたような顔をしたから、また笑ってしまった。
「覚えていて。僕のことを。……それから、これから話すことを」
僕がいなくなったら、ちづるちゃんの存在やあの約束も全部、泡のように消えてなくなってしまうような気がした。そんなのって、寂しすぎる。
だから、誰かの記憶の片隅に住まわせてほしい。僕とちづるちゃんとの日々を。
「……あんた、残される方の気持ちを考えたことがないのか?」
少し切なさを滲ませた声で聞いてくる一君に、今更ながら酷なお願いをしてしまったなと思う。
「ある……というより分かってるつもりだけど。それでも、一君にお願いしたい」
一君はふう、と深く溜め息を吐いて、それから困ったような微笑を見せた。
「分かった。聞こう」
「最初からそう言ってくれるって分かってたよ」
優しいからね、という言葉は呑み込んだ。僕は最期まで素直じゃないらしい。
「あんたも意地の悪い男だな」
「それはどうも」
さあ、どこから話そうか。
でもやっぱりその前に。
「一君、その椅子に座らないでくれるかな?」
彼は不思議そうにこちらを見て、なにゆえ、なんて言った。
だって、そこは君の席だから。
そうでしょ、ちづるちゃん。
窓の外では舞い落ちる銀色が、街灯の灯りに照らされてきらきら光っていた。
春は、遠い。
fin.