「おはようございます。朝ですよ」

今ではすっかり聞き慣れてしまった声。本当はとっくに目覚めていたけれど、ちょっと狸寝入りを決め込んでみた。

「……総司さん?朝ですよ」

普段なら彼女が来る前に起きているからこんなことは珍しい。ちづるちゃんは此方を伺うように近付いてきて、そしてベッドの脇の椅子に静かに腰を下ろした。そこは彼女の指定席となっていて、横になっている僕に色んな話を聞かせてくれる。

「…総司さん」

――…もう一度、もう一度呼んでほしい。柔らかな声で、僕の名を。

「ふふっ、寝たふりですか、総司さん」

くすくすと笑いながらそう言われては仕方ない。僕はのそのそと状態を起こした。

この子は時々こういうことがある。いつもは少し幼さの残る笑顔でいるのに、たまに母親のような笑みを見せるんだ。
まあ、僕の母親は早くに亡くなってるから、年の離れた姉さんに近いのかもしれない。


「……なんだ、気づいてたの」

「お昼寝しているときと違うな、と思っただけですよ」

さあ、起きてください。と言いながらちづるちゃんはカーテン、続いて窓を開けた。

窓から入ってくる風は少しひんやりしている。別に寒さを感じるほどじゃない。寧ろ心地良いくらいだ。それでもちづるちゃんは部屋の換気が終わるとさっさと閉めてしまう。
あんなに長く感じた夏も過ぎてみればあっという間で、季節の移ろいとはこんなにも早いものだったかと考える。

空を見れば見事な秋晴れで、降り注ぐ陽光がとてもあたたかそうだった。目を細めながらしばらくそれを眺める。その間もちづるちゃんは僕の着替えやら何やらをせっせと用意してくれていた。
……そこまでしてくれなくてもいいのに。そう一言いえば済む話だ。だけどせわしなく動く小さな背中が可愛らしくて、いつも口を噤んでしまう。


「ねえ、ちづるちゃん」

ふっと思いついて声をかけてみる。僕は行動派だ。そしてこれは提案ではなく決定事項。

「はい?」

こちらを振り返って、それからこてんと首を傾げる。これが彼女の癖だ。

「今日、デートしない?」

「……で、でーと?」

ちづるちゃんは目を丸くして言った。……予想通り良い反応だ。




「いい天気だね」

「はい。ですけど、総司さん……」

「大丈夫。無理はしないよ」

「………」

そう返せば彼女が何も言えなくなることくらい分かってた。
ちづるちゃんはそれでも笑顔を作ってくれた。


デートに行こうと、駄々をこねるようにしてちづるちゃんを連れ出した。二人でふらふらと平日の公園を歩く。あの、初めて会ったときの場所だ。
青々と茂っていた葉は今は茶色になって降り積もっている。風が吹く度舞い上がり、そして新たな仲間を増やした。

犬の散歩をしている女性や日光浴を楽しむ老夫婦くらいで人影がまばらなここは、時間がゆっくりと過ぎていた。
だけど、いくらゆっくりと言ったって時が止まるわけではない。この間にも人の何倍もの速度で僕の命は削られている。

……僕はいつまで生きて、君の隣を歩けるだろうか。

そう考えると途端に怖くなった。
今までただぼんやりと遠くに見えていただけの死が、いきなり背後に回ってきたような、首に刃を突きつけられたような、ひやりとした感覚。

「総司さん」

僕を呼ぶ声に思考の淵から呼び戻される。そして右手に小さな温もりを感じた。
僕は何も言えずに彼女をただ見つめていると、少し困ったような笑顔を向けてこう言った。

「総司さん、迷子になりそうだったので」

「……っ!」

鼻がつんとして、目頭が熱い。真っ直ぐ向けられる瞳に、全て見透かされてるような気さえする。頼りなく揺らぐ僕の心と命の灯火。
だけど涙なんて見せたくなかった。僕らしくない。だからいつも通りの笑顔を貼り付けて、そしてちづるちゃんの指に僕のを絡めた。僕たち夫婦に見えるかな、なんて問えば君は少し怒って、それから笑った。

「ずっと、こうしていたい」

「それは駄目です。日が沈む前には帰らないと体が冷えちゃいます」

「……そういうことじゃないんだけど」

本当に、聡いんだか疎いんだか分からない。だけど僕は彼女のそんなところが好きなんだと思う。

ちょっと歩いて、それから二人ベンチに座って何を話すでもなくぼんやりと過ごした。耳を澄ますと後ろからさわさわと、まだ枝についている葉の擦れる音がした。たしか、この木は……。

「さくら」

「……え?」

ちづるちゃんが少し首を傾げながら此方を見た。間の抜けた声が可愛くて、ちょっと可笑しくて、僕は少し笑いながら答える。

「この木、たしか桜だったなって」

僕がちらりと後ろに視線を向けると、ちづるちゃんも釣られて振り返る。今の姿からは想像できないかもしれないけれど、連なる木々は桜の並木だ。

死病に犯された僕に与えられたのは仕切りの見えない、保養地という名の箱庭。そして自由な時間。ううん、自由なんかじゃない。ただ息をするだけの、他に何をすることも許されない、言ってしまえば生殺しの日々だった。
ここに来てから冬を迎え、雪が溶けて命が芽吹いた。窓辺から淡い薄紅色を眺めて、それが散って新緑の季節となった頃、僕は彼女に出会った。途端世界が色付き始めて、僕は欲張りになってしまったんだ。

「来年さ……」

ずっと目を背けてきた死に向き合って、ただ消費してきた生を振り返って、思ったんだ。君のお陰で、思えるようになったんだよ。

「来年、桜が咲いたら、一緒に見てくれる?」

『生きたい』って。

自分の体のことは、自分が一番よく分かってる。どんどん体力が落ちてるし、起きてる時間も短くなった。たぶんこれ以上良くなることはないだろう。

ちづるちゃんは少し目を見開いてから、それから綺麗に笑った。僕には何故かそれが儚く見えた。まるで今にも消えてしまいそうだった。
理由はまるで分からない。だって、普通逆じゃない?いなくなるのは僕なんだから。
でもそんな思考は一瞬のことで、すぐに頭の隅へ追いやってしまった。このときは、それくらいの些細な違和感程度にしか感じていなかったんだ。

「楽しみですね」

言いながら笑顔を深めるちづるちゃんに、とても安心した。
約束だよって言って、それから指切りをした。



果たせないと分かってる。だけどこの子となら奇跡だって起こせるんじゃないかって、考えてる自分もいた。

だけどまさかこんな形で幕引きするなんて、このときの僕は考えていなかったんだ。




「……総司」

あたたかな記憶の海から僕を引き上げたのは、懐かしい声だった。
ゆっくり目を開くと蛍光灯の下によく見知った顔が見えた。最後に会ったときより少し大人びた彼に、時間の流れを感じる。
ベッドの横の椅子に腰掛けじっと此方を見る彼は、相変わらず無愛想だ。だけど付き合いが長いせいか僕には彼の心情がだいたい分かってしまう。
そこは彼女の席だから退いてくれないかな、と思ったけど挨拶がまだだったことに気付いた。久方ぶりに会うんだもの。そこはちゃんとしないとね。

「やあ、一君。久しぶり」




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