「そういえばさ……」
「……?」
軽い食事を終えて、さっきの公園まで戻る道すがらちづるちゃんに尋ねてみる。首を傾げてこちらを見上げる姿は僅かに幼さを残している。年下なのかな?
「何処から来たの?」
「………」
聞いても少し困ったように笑うだけで答えようとしない。そんな彼女に僕は言葉を続けた。
「もう夕方だし。そろそろ帰ること考えないとダメでしょ?」
空は赤みを帯び、風に吹かれると少し肌寒い。あと一時間もすれば日も沈むだろう。
ちづるちゃんは黙ったまま俯いてしまった。下ろしていた髪が顔を隠して表情が見えない。だけど、泣き出しそうな顔してるんだろうなって、何となく分かった。
「家においでよ」
「……え?」
弾かれたように上がった頭。幼さの残る顔には戸惑いと僅かな期待の色が伺える。
「部屋なら余ってるし。どうせ行くとこないんでしょ?」
「……」
どうしたら良いものか迷っている彼女の手を掴んで僕は歩き出した。おろおろしつつも黙って付いてくることが彼女の答えなのだろう。
別にやましい気持ちなんてない。僕も男のはずなのに、何故かそんな気にはなれなかった。ただ彼女をこのまま独りにしてはいけないと思った。それだけ。
僕の思いが伝わったのだろう、ちづるちゃんが僕の手を握り返してきた。僕より高い体温。それがとても心地良かったんだ。
それから、僕とちづるちゃんの共同生活が始まった。
「お、沖田さん!何してるんですか!?」
「ん?見ての通り料理だけど?」
「もう、病人は大人しく寝ててください」
初めこそお手伝いさんは吃驚してたけど、ちづるちゃんについて深く尋ねて来ることはなかった。長く働いてもらってるだけのことはあって、入ってはいけない境界線は心得ているらしい。必要な仕事はしていくけれど、それが終わるとそっと帰って行く。僕とちづるちゃんが二人でいられるように。
だから最近はよくちづるちゃんがご飯を作ってくれる。だけど独り待たされる僕は少し退屈なわけで、作れるはずないのにこうやって台所に立ってみたりする。
「大丈夫だよ。もう治っちゃった」
「嘘です。さっき咳してました。風邪だってこじらせると大変なんですよ」
ぷりぷりとしながら小言を言っても全然怖くないし、寧ろ可愛らしい。
「……風邪、じゃないんだけどね」
「またそう言って……」
「だって退屈なんだもん」
屈んで下から覗き込むように言うと、ちづるちゃんは小さく溜め息を吐いた。あ、少し困った顔してる。
「じゃあ、せめてそこに座ってください。わたしも早く終わらせますから」
「うん」
カウンター前の椅子に腰を下ろして肘をつきながらちづるちゃんを見る。包丁を握る真剣な瞳。味見をして満足そうな顔。どれも飽きることはなくて、誰かといてこんなに心安らぐのは初めてだった。
「ねぇ、ちづるちゃん」
「何ですか?」
手を止めて僅かに桜色の入った瞳がこちらを向いた。それを見ると途端に切なさが押し寄せてくる。
「……やっぱり、何でもない」
「?……もうすぐ出来ますからね」
不思議そうに首を傾げたけど、すぐにそれは微笑みに変わった。春の日差しみたいにぽかぽかとした笑顔。だけど今の僕には真夏の太陽よりも眩しい。
「……うん」
喉まで来た言葉を呑み込んで、代わりに笑顔を貼り付けた。
「只今戻りました」
「お帰り。暑かったでしょ?」
外出先から帰ってきたちづるちゃんを後ろからぎゅっと抱きしめると、肌がじっとりと汗ばんでいた。
「総司さん、言動と行動が一致していません」
「僕は暑くない」
「もう……」
ちづるちゃんは少し困ったように笑ったけど、されるがままにしている。
一緒に住んで数ヶ月が過ぎ、夏も終わりに近付いていた。といってもまだまだ残暑は厳しい。
ちづるちゃんは日中、よくどこかへ出掛ける。買い物袋を下げてくることが多いけど、たまに僕に見せたかったと言って小動物や花の写メなんかも撮ってくる。
携帯はここに来て一ヶ月くらいのときに、僕が彼女に預けたものだ。今の機種は買い物などいろいろできて便利で助かる。と言っても買うのは僕たちの食料品や日用雑貨くらいで無駄遣いをしている様子もない。そこは彼女を信頼した所以のひとつだ。
「今日はカレーですよ。暑いときこそスタミナが大切です」
「んー、あんまり食欲ないかも」
「少しでいいから食べてくださいね」
「……ちづるちゃんが食べさせてくれる?」
「総司さんっ!!」
「半分冗談だよ」
こうやってからかって、でも最後には笑い合って、それが凄く心地良い。
だけどそれと同じくらいの焦燥感に駆られる。
――…僕はいつまで君の隣にいられるんだろう?
『……来年……………れる?』
『…はい………楽し…ですね』
『約束だよ』
ふっと意識が浮上した。辺りを見渡してもやっぱり君はいなかった。
この部屋で独り目覚め、また眠る。それを何度繰り返しただろう?
暁と夕闇が頭の中で混ざり合って、今がいつだか分からなくなる。
軋む体を起こして窓の方を向く。それだけで咳き込んでしまい肺が痛い。慣れ親しんだ鉄の味に口元を拭った。部屋に差し込む光は弱々しく、まるで僕のようだ。完全に日が落ちるまでそうしていたけど、結局疲れて再び横になった。
そう、僕は沈みゆく落日そのもの。もうすぐ夜になって眠りに就く。覚めない眠りに。約束を破るのは、守れないのは僕だ。
それでも、あのときはちょっとだけ、ほんの少しだけ思ったんだ。この日々が続いて、来年も再来年もその先もずっと一緒にいられるんじゃないかって。
二人で見た赤と青、広がる澄んだ空。それを瞼の裏に映しながら微睡みに意識を任せた。
今はただ、優しい記憶の中を泳いでいたいから。