とんとん、と規則的なリズムが心地よく鼓膜を揺らす。

「もうすぐできますから」

「ああ、いつもすまねえな」


千鶴はこれくらいしかできないので、と少し笑みを零しながら答えると俺に背を向け料理を再開した。
台所に立つ千鶴をソファーの背に凭れながら眺めるのが日常になりつつある一月三日。初詣に出かけたあとは一度スーパーへ買い物に行ったくらいで静かに過ごしていた。

斎藤と話しているとき様子のおかしかった千鶴。しかしそれもすぐいつも通りに戻り、斎藤とも打ち解けていた。今度小説を貸してもらう約束までしていやがった。人見知りが激しいんだかそうじゃねえんだか。
神社に着いたときといい、あれは気のせいだったのか?出会い方が出会い方なだけあり、些細なことでも不安になるのかもしれねえ。

そもそも、俺はこいつの何を知ってる?
気が弱そうに見えて実は頑固なところ。若いわりに料理上手で家事全般をそつなくこなしちまうところ。表情がころころ変わるところ。その中でも笑顔が一番似合うところ。――…それから、千鶴という名前。それぐれえじゃねえか。
俺はこいつの名字も、年も、ここに来るまで何処にいたのかも何も知らねえ。
ただ手放し難い存在であることは確かで、知りたいと思う反面知ったら俺から離れて行くんじゃねえかと怖くなっちまう。

本人が話すまで待つしかないか、と無理矢理自分を納得させ、一服しようと煙草を手に取った。

「……ちっ、切れてやがる」

千鶴が家に来てからというもの煙草の量が減った。独りでいると無意識に手が伸びちまっていけねえ。
以前より気にかけなくなったからだろうか、今日は煙草を切らしちまった。

仕方ねえ。コンビニまで行ってくるかと渋々ソファーから立ち上がる。財布を手に取り、声を掛けてから出ようと千鶴の後ろへ回り込んだ。

「おい、千鶴……」

「いたっ…土方さん脅かさないでください」

「ああ、悪い。そんなつもりじゃなかったんだが……切ったのか?」

料理に集中していたのか俺に気付かなかったらしく、千鶴はびくりと肩を揺らした。どうやらその拍子に包丁で左手の指を切ったらしく、傷口を右手で押さえている。

「見せてみろ」

「い、いえ。大丈夫ですから」

傷が深かったら止血しなきゃならねえし、利き手じゃないとはいえ自分じゃ手当し辛いだろう。何より心配で手を差し出しながらそう言ったが、千鶴はまるで傷口を隠すようにこちらに背を向け従おうとしない。
こいつは押しが強いと思ったら変なところで遠慮したりする。これでは埒が明かないと些か強引に左手首を引き寄せた。

「あ、やめっ……」

「……?」

目の高さまで手首を持ち上げ指を隈無く見るが傷がどこにもねえ。僅かに血が付いてるから怪我したことは間違いねえんだが……。

「…すまねえ、そっちだったか?」

反対側の手を持ち上げ傷口を探す。千鶴はただ俯いているだけでさっきみてえに抵抗しなかった。だがどんなに目を凝らしてもあるのは傷跡ひとつない白く綺麗な指だけだ。

「――…。」

俺は今度こそ黙っちまった。出血しているのに傷口はねえ。どういうことだ?

「……いると思いますか?」

ぽつりと千鶴はそう零すと顔を上げこちらを真っ直ぐ見据えた。俺は特に言葉をかけるでもなくその先を待った。

「土方さんは、人魚っていると思いますか?」

千鶴の声は震えていて、抱き締めたい衝動に駆られたが堪えた。それよりも、俺はこの問いに答えてやらないとならねえ。
空いている手に力を入れれば皮膚に爪が食い込んでいるのがわかる。だが不思議と痛いとは思わなかった。

「さあな。俺は自分で見たものしか信じねえよ」

別にはぐらかそうってわけじゃねえ。ブラウン管越しに見る世界だって本当は全て張りぼてなんじゃねえか、なんて考えることもある。逆に例え世間が夢幻だと言ったとしても、自分の目で確かめたなら信じざるを得ない。

千鶴は驚いたように目を見開くたいがすぐに淡い笑みを浮かべた。いつもの花が綻ぶようなものではない、喩えるならば散り際の桜のような儚さのあるそれに、俺は耐えきれなくなり腕を伸ばした。

「――…土方さんらしい答えですね」

「……もういい」

「土方さんはその目で見たはずです。できたばかりの傷口がない。……そんな私が、人間だと思いますか?」

「もういい。何も言うな」

左手で腰を抱き、右手で頬を包み上向かせた。揺れる瞳は悲しみの色に染まっている。だが決してそこから涙が流れることはない。

「ひじか…」

「黙ってろ」

もうこれ以上何も言わせたくなかった。千鶴の言葉を遮るように唇を重ねる。柔らかな感触にくらりと脳が痺れた気がした。最初こそ軽いものだったがだんだんと深くなるそれに互いの呼吸が乱れていった。

「……ここにいろ」

ひとしきり唇を貪り千鶴が大人しくなったところで首筋に顔を埋めながら囁いた。自分で聞いた声は思った以上に情けねえもので、自嘲気味な笑いが零れる。

「何があっても、おまえはおまえだ。だから気にせずここにいろ」

千鶴は何も言わず俺の背に腕を回した。それに答えるよう抱く腕に力を込める。

「――…独りに、しないでください」

「するわけねえだろ」

髪を梳いてやれば気持ちいいのか俺の肩に頭を預けてきた。
そっと小さな体を抱き上げソファーまで運ぶ。

「あとは俺がやるから、おまえは少し休んでろ」

「……すみません」

気にすんなと言いながら頭を撫でれば、千鶴は弱々しく笑った。
違う、そんな顔させたいわけじゃねえんだよ。

「土方さん」

「何だ?」

台所へ戻ろうとしたが呼び止められたので振り返る。千鶴の後ろ姿はいつも以上に小さく見えた。

「――…結局、いるんと思うんですか、いないと思うんですか?」

「あ……ああ、人魚のことか?」

「はい」

「見たことねえからな。いないんじゃないか?」

「見たことないから……そうですか」

「まさか自分が人魚だって言うんじゃねえだろうな?」

軽い口調で聞いたつもりだが、俺の心臓はどくどくと脈打っていた。
傷がすぐ治るのは確かに普通じゃねえが、だからって千鶴に人魚の要素などどこにもない。だがこいつの口からならそれくらいのことが出てもおかしくねえ。
さっきこそおまえはおまえだ、なんて偉そうなことを言ったものだが実際そう告げられたとき、俺はこいつを受け止められるだろうか?

俺があれこれと思考を巡らせているとくすりと笑い声が聞こえた。

「そんなわけないじゃないですか」

「ああ、分かってるよ。……言ってみただけだ」

千鶴の返事を聞いてほっと胸を撫で下ろす自分がいることに嫌気が差した。たとえこいつが何者だろうが、今更手放せるわけがない。分かりきったことじゃねえか。

「私は……泡になって消えるような、そんな存在じゃないですから」



人々が言う悲劇とか

泡になって消える人魚姫。
私はそう思わない。




確かにおまえは儚く消える存在じゃねえのかもしれない。だがな、俺の前からいなくなったら消えたも同然なんだよ。

背を向けているためその表情は見えねえが、泣いているんだろうな。涙も流せずに。

俺は台所に立ち料理を仕上げる。とは言っても残すは味噌汁だけなんだが。

ただ、隣で笑っていてほしいんだ。
これを食べ終えたとき、またあの花が綻ぶような笑みを見せてくれるだろうか。


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