2012.2


日の沈みかけた放課後、私は担任教師に頼まれたワークを届けるため国語準備室へ向かっていた。

高校に入学してから一年近く経ち、勉強や部活に追われながらもここでの生活に大分慣れてきた。このように先生から何か頼まれるのはいつものことで、白い息を弾ませながら気持ち早足で歩を進める。
真冬の今、特別棟へと続く渡り廊下には風が吹き付けとにかく寒い。これが終わったら自販機で温かい飲み物でも買おうか。そんなことを頭の隅で考えていた。

「失礼します、雪村です」

ノックをしてから声をかけると返事があったのでドアを開けて中に入った。
"国語準備室"といっても実際は私の担任くらいしか使っていないため、わざわざ学年やクラスを言う必要はないし、そもそも訪ねてくる人も少ない。しかし中には鬼教師と名高い彼に悪戯をしに来る新人教諭もいるらしい。特に授業を受け持ってもらっていないからどんな人かは分からないけれど、本当に命知らずだと思う。

「みんなのワークです」

「ああ、すまねえな。そこに置いといてくれ」

回収した課題を置くことぐらいしか使われていない机にワークを下ろすと、頭上からご苦労だったなと声をかけられた。

「では、失礼しますね」

「気を付けて帰れよ」

はい、と勢いよく返事をしたら先生からちょっと困ったような笑みを零す気配がした。

ドアを開け退室しようとしたけど、向こう側にも誰かいたのだろう、出会い頭に思いっ切り相手に突っ込んでしまった。

「!!……す、すみません」

「いや、こちらこそすまない。……大事ないか?」

聞き覚えのある声に顔を上げれば目の前には数学の斎藤先生がいた。先生の担当は二年生なので普段あまり接点はないけど、入学式前の或る出来事をきっかけに、会えば二言三言ことばを交わす仲になっていた。

「言わんこっちゃねえな。おまえは少しぼーっとしすぎなんだよ」

「……すみません」

一部始終を見ていた担任の土方先生が呆れたように言うと、私にバチンとでこぴんした。痛いですと抗議したけど今度は人差し指でおでこを小突かれてしまった。

「――…土方先生、明日の職員会議の件なのですが、よろしいでしょうか?」

気のせいかもしれないけれど、斎藤先生の声はいつもより気持ち低く聞こえた。私に向けられる普段はあたたかい眼差しも、どこか冷たいような気がする。
土方先生はまた苦笑いしながら溜め息を吐いた。

「ああ、構わねえよ。雪村、気を付けて帰れ」

「――…え、あ、はい。斎藤先生、土方先生、さようなら」

私が挨拶すれば斎藤先生はいつも微笑みながらそれに応えてくれた。なのに今日は機械的なさようなら、という言葉だけで私は胸に弱い痛みを感じた。




「――…でも、今日は乙女の聖戦でしょ?」

「聖戦って、お千ちゃん…」

「だって女の子にとっては年に一度の一大イベントじゃない。それにチョコだって用意してきたんだから」

「うん…」

私は先日の出来事を親友であるお千ちゃんこと千姫に相談していた。彼女とは高校に入ってからの付き合いだけど、不思議と初めて会った気がしない。
その日以来斎藤先生とは一般生徒と教師間で交わす挨拶程度で、前のように話せていなかった。

「生徒が先生にチョコ上げるなんてよくあることじゃない。別にお菓子の持ち込みも禁止じゃないんだし。……それとも、もしかして告白とか…」

「なっ…何でそうなるの!?斎藤先生は別にそういうのじゃ……」

「あら、違ったの?」

何故か一気に顔が熱くなって、冷まそうと両手で仰ぐ。お千ちゃんがにやにやとしながらこっちを見ているから再度否定したらそれ以上食い下がることはなかった。

斎藤先生に対する感情は、自分でもよく分からない。一緒にいると穏やかな気持ちになるのと同時に、何か頭に引っかかりを感じる。寂しいような、悲しいような。あともう少しで思い出せるのに、あと一息で言葉にに出来るのに、そんなとき思うもどかしさにも似た何かを。
今までだって別に好きな男の子がいなかったわけじゃない。でもそれとは違う。だからこれは恋愛感情ではないんだと思う。
今日チョコを渡すのだって普段からお世話になってるのとこの気まずい状態から仲直りしたいからであって、きっと特別な意味はない。

「とにかくもう放課後なんだから、いい加減渡しに行かないと斎藤先生帰っちゃうかもしれないわよ」

「う、うん。行ってくるね」

「行ってらっしゃい。応援してるわ、千鶴ちゃん」

「ありがとう、お千ちゃん」

微笑みながら見送ってくれるお千ちゃんに笑顔で返し、意を決して自分のクラスを出た。

この時間なら職員室、進路指導室、副顧問をしている剣道部が活動している武道場……頭の中で斎藤先生がいそうな場所を思い描きながら順番に回る。そのどこにも先生の姿は見あたらなくて、肩を落としながら特別棟から普通校舎への渡り廊下を歩いた。やっぱり、お千ちゃんの言うとおりもう帰ってしまったのかもしれない。
視線を足元から前に戻すと廊下の先に見間違えるはずもない斎藤先生の後ろ姿が見えた。こういうとき右目2.0、左目1.5の自分の視力は得だなと思う。さっきまでの暗い気持ちはどこへやら、私は若干緊張しつつも頬を緩ませながら斎藤先生へ駆け寄ろうとした。

「――…すまないが、受け取れない」

「どうして、ですか?」

斎藤先生の陰になって見えなかったけれど私には先客がいたみたいで、先生のその言葉はまるで自分に言われているみたいだった。

「受け取っていただけるだけでいいんです。ダメ、ですか?」

「生徒からは受け取らないようにしている。あんただけ特別扱いするわけにはいかないだろう」

「……そうですか」

失礼します、そう言い残して女子生徒は駆け足で去って行った。私の自慢の双眸は彼女の決壊寸前の瞳をしっかり捉えていた。

「――…ら…雪村」

「あっ……斎藤先生」

その背をぼんやり見つめていると、いつの間にやら斎藤先生が目の前まで来ていた。吃驚して思わず一歩後退る。
そういえばこんなに近くで話すのは国語準備室でぶつかったとき以来だ。

「え、えっと……こんにちは」

「…ああ」

今は最近感じていた冷たさはないけれど、何故か居心地の悪い沈黙が生まれてしまう。それを何とか打ち破りたくて私が口を開けば先に斎藤先生の声が聞こえた。

「その……それは、誰かに渡すのか?」

「これですか?……えっと」

先生にです、そう言ってしまいたい。しかしさっきの会話を聞いてしまっては当然受け取ってもらえるはずもなく、渡したところで斎藤先生に迷惑をかけてしまう。ううん、違う。断られて自分が傷つくのが怖いだけ。
上手い言い訳はないかと脳をフル回転させるけれど私のちっぽけな頭では何も思い付かなくて、口を開いたり閉じたりを繰り返すしかなかった。

「えーっと、これは、ですね……あ!」

斎藤先生の後ろ、普通校舎からこちらに向かってくる人影に私は声を上げた。

「土方先生!!」

「雪村?おまえまだいたのか」

もう外も暗いだろと言いながら歩み寄ってくる土方先生に、私は手に持っていた紙袋をなかば押し付ける形で渡した。

「!?…おい、雪村!」

「せ、先生に会えてちょうどよかったです。失礼します!!」

廊下は走っちゃいけません。そんなことを昔言われたけれど、全く気にならなかった。最速で50メートルを7秒代で走る私の足はここぞとばかりに実力を発揮して、先生たちからみるみる遠ざかる。
僅かに滲む視界。こういうのが捨て台詞っていうのかな、なんてどうでもいいことを考えていた。





残るのはいつも、
この胸の痛みだけで



人を好きになるのって、もっと楽しくて、どきどきして、恥ずかしくて、きらきらしてて……。

だからこんなビターチョコみたいにほろ苦い想いは、恋煩いなんかじゃない。

じゃあ、この感情は何だろう?






俺は千鶴の小さくなっていく背中をぼんやりと見ていた。

彼女は俺のことを覚えていない。それでも日々の交流の中でどこか期待している自分がいた。
生徒からチョコレートを受け取らなかった理由も、結局あんなものは建て前で、本当は彼女のものだけがほしかったのだろう。
実際、過去にも日本にバレンタインデーという習慣が根付いた時代で生きたことはあるが、母など自分の家族意外からは受け取ったことはなかった。大学時代に平助から"友チョコ"とやらを貰ったが、それは対象外だ。

――…千鶴は、土方さんを想っているのだろうか?
思い返せば先日も親しげにじゃれ合っていた。それを見て情けないことに嫉妬してしまったわけだが、よもや俺の入り込む隙はないのか。いや、そんなことは……。

「はぁ、何やってんだよおまえたちは」

俺の後ろ向きな思考を断ち切るように、土方さんは苦笑を零しながら言った。意図が分からず訊ねたがもう一度大きな溜め息を吐かれただけで何も教えてはもらえなかった。


何も覚えてなくていい。ただ生きて、笑っていてくれれば。
俺の中にある記憶さえ、全てが全て良いものなわけじゃない。だから思い出さない方が千鶴にとっては幸せなのかもしれない。

それでも、胸に弱い痛みを感じるのは何故だろうか。

出会えただけで奇跡のようなものだ。しかし人間というのは欲の深い生き物で、今度は先を求めてしまう。

「――…あと、ニ年だな」

あと二年。彼女が卒業したら、思いの丈を伝えよう。そのとき出された彼女の答えが何であれ、受け止めるしかない。
だからそれまでは、ただの生徒と教師だ。

言いようのない切なさを抱えながら、俺はいずれ巡ってくる桜の季節を待っていた。



title:瞑目


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