2013.3
俺が教師になり、初めて勤めた学校。この古いながらもなかなか味のある校舎とも今日でお別れらしい。
こんな日が来ることは分かっていた。自分は公立高校の教員で数年ごとに勤務先が変わる。
だが心のどこかで彼女が巣立つのを見送れるのではないか、そしてただの男女として想いを伝えられるのではないか。そんな淡い期待を抱いていた。
一年後、また彼女に会いに来ればいいだけの話だ。それでも不安を覚える俺は過去に捕らわれているのだろう。前世までの俺たちを振り返れば、そのほとんどが早すぎる別離だった。
だから、彼女に託した。百余年の間二人を結び続けたそれを。
それが"今"の俺や彼女ではなくても、また出会えるのを信じて。
「斎藤先生っ!」
中庭で早咲きの桜をぼんやり眺めながら感傷に浸っていると、後ろから愛おしい人の声がした。俺は驚きながらも、ここで初めて会ったときのようだと懐かしさを覚える。
あれから二年が経った。振り返り自身の目に映した彼女の姿はあの時よりも大人びていて、心臓がとくりと音を立てる。
「雪村、生徒はもう帰る時間のはずだが?」
「……先生」
ゆっくりと彼女が俺に歩み寄る。その間も真っ直ぐ向けられる彼女の瞳に、何故か泣き出したいような衝動に駆られた。
「斎藤先生……はじめさん」
「…ち、づる」
焦がれ続けた声。小さな唇から紡がれた名に、心が打ち振るえた。応えるように呼んだ俺の声はだらしないくらいに掠れている。
目の前まで来ると千鶴は俺の左手を取り、そっと何かを握らせた。それは余りに手に馴染んだ感触で、また驚き目を見開く。
左手を開けば予想通りに色褪せた薄桃色が顔を覗かせ、俺は真意を問おうと彼女を見つめた。
「せっかくいただいたものですけど、私には必要ないみたいなので」
ふんわりと笑いながら言う彼女に更に困惑する。見たところ彼女には全てかどうか定かではないが"記憶"があるはずだ。ならば何故必要ないなどと言うのだろう。
「……小指を、出してくださいませんか?」
俺があれこれと頭を悩ませていると唐突にそう言われた。断る理由もないので空いている右手の小指を差し出す。小さい子供が約束をするときのように。
すると千鶴は制服のポケットに手を入れ、そこから赤い紐を取り出した。それは本来俺の手にある巾着袋の中にあるはずのものだ。何故今千鶴が持っているのか考える暇もないまま、小指に絡み付く赤い線。優しく、だが決して解けないように結ばれた。
「何代も何代も繋いできてくれたものですけど、私は過去も未来もいらない。
"今"貴方と共にいたい。"今"がほしいんです。」
彼女の言葉に気付かされる。時が来たら伝えようと、別れてもまたいつか巡り会えると、そんな先のことばかりを想っていた。だが、それではいつまでも二人で生きることは出来ない。"未来"なんて不確かなものより"今"に縋らないでどうするのか。何よりも、"今"俺が千鶴と共に在りたいと願っている。
「私は貴方から離れません。
だから、"また会えるお守り"なんていらないんですよ」
そう言ってのけた彼女に、俺は適わないなと溜め息を零した。すると千鶴は嬉しそうに笑みを深めるから、俺も釣られるように笑った。
「一さん。一さんも、私を放さずにいてくれますか?」
彼女は俺の答えなど疾うに知っている。だが問いかけた瞳は不安げに揺れていた。
「ああ。……もちろんだ」
俺は彼女の左手を取り、そこに赤い紐を結び付けた。一つに繋がる俺と千鶴の小指。その間をさらに埋めようと左手で千鶴を抱き寄せ、右手は彼女の左手に絡ませる。それに応えるかのように千鶴は握り返してくれた。
ただ名を呼び、抱き締め合う。そこには愛の言葉すら要らないと思った。
"今"二人で共に在ることの喜びに目頭が熱くなる。涙は見せたくないから、彼女の頭を俺の肩へ押し付けた。千鶴も泣いているのだろう、小さな嗚咽が聞こえてくる。俺は千鶴を抱く力を強め、彼女も俺にしがみついてきた。
視界の隅では桜が舞っていた。
桜が舞う頃
今、貴方に出会った
いつか別離のときが来るかもしれない。
それでも"今"をひたすらに求め生きていく。
その"今"が積み重なって"永遠"になる。
貴方も、そう思うでしょう?
title:10mm.