今も耳に残る、彼女が最後に言ったことば。


覚えていて、私が存在していたことを



1993.4


薬品の匂いと行き交う白衣の人々。どこも同じような造りの建物。病院というのは普通あまり子供が好む場所ではない。
しかし、幼き日の俺は嫌いじゃなかった。普段目にしないものがおもしろかったのか、医者というのに憧れたのか。理由はわからない。ただ祖父が入院していたそこに行くと、どこか懐かしいような何とも言えない気持ちになった。


その病院の中庭には古い桜の木があり、俺は行く度にそれを眺めた。固く閉じていた蕾が綻び出した頃、俺はそこで一人の女性と出会う。
入院患者である彼女はまだ若かったが、痩せ細り肌は病的なまでに白く(入院しているのだからなんらかの病に侵されているのは確かだが)、あまり良い状態とは言えなかった。それでも優しく微笑む姿はあまりにも綺麗で、俺は彼女が笑う度に顔を赤くしていたことだろう。

俺たちはいつも桜の下で何をするでもなく共に過ごした。ただ彼女が隣にいる。それだけのことがひどく幸せで、俺の世界に色を付けた。


桜が散り始めたある日のこと。彼女が唐突に話し出した。

「雪みたい」

「……雪?」

語尾に疑問符を付けながら聞き返すと、彼女はまた俺の好きな笑顔を見せてくれた。

「そう。水分が多いのじゃなくて、舞うように降る粉雪みたい」

言われて、改めて頭上を見上げる。ひらひらと降り注ぐ花びらは、確かに雪のようにも見えた。俺はその一枚を地面に落ちる前に掴む。

ああ、確か前にもこんなことが……。
頭の片隅でそう考えたが、隣から聞こえてきた声でそれは断ち切られた。

「すごい、一さん上手!」

彼女は自分の方が遥かに年上なのにも関わらず、何故か俺のことを"さん"付けで呼ぶ。しかしおかしなことに、俺もそれに対し何の抵抗も違和感もなく、むしろ心地良いとさえ感じていた。

「……あんたにやる」

「ありがとう」

幼かった俺は今以上に不器用で気の利いた言葉ひとつ言えず、ただずいと彼女に左手を差し出した。彼女は気分を害すどころか嬉しそうにそれを受け取る。やはりその笑顔はあたたかかった。
両手に乗せ暫しその小さな薄紅色を見つめると、カーディガンのポケットから手帳を取り出し、そこにそっと挟んだ。

「それじゃあ、私も一さんにあげたいものがあるんです」

手帳を取り出したのとは反対側のポケットを探ると、彼女はそこから白いハンカチを取り出した。
ハンカチを開くと中から薄桃色の布が顔を出す。相当古いものなのだろう、随分と色褪せ、所々擦り切れていた。

「これはね、私の大切な人が私に残したものなんです。……これを見る度に、その人を思い出す」

俺に語りかけながらも、彼女はどこか遠くを見ていた。俺ではない、もっともっと遠くを。それがやけに切なく胸を掻き乱す。
俺は彼女の意識を引き戻すようにそのカーディガンの袖を軽く引っ張った。するとそれに気付いたのか再び彼女の深い茶の双眸に俺が写り込む。そのことに自分の独占欲がひどく満たされた気がした。

「だから、一さんに持っていてほしいの」

俺はその薄桃色の布を受け取った。

春なのに、吹く風が冷たかったのは何故だろう。



2011.4


あれから何回目の春だろうか。
俺は疾うに彼女の年を越してしまった。

「…覚えていて、か」

忘れられるはずがない。今も彼女の最後に言った言葉が鼓膜に響く。
彼女は自分の死期を覚っていたのだろう。しかし全てを受け入れるには若すぎた。だから俺にああ言ったんだ。

勤め先である高校の中庭に立つ桜は、彼女とよく見たそれに似ていた。
俺は大人になり、彼女は天に召された。それでも淡い色をしたこの花だけは変わらないのだと思うとどこか救われる気がする。

校舎の方からチャイムが聞こえる。時計をみれば、もうすぐ入学式が始まる時刻だ。いくら職員室待機だからといってそろそろ戻った方がいいだろう。
最後にもう少しだけと桜を仰ぐと、後ろから懐かしい声がした。その瞬間に頭の中で何かが弾ける。
嗚呼、今までどうして忘れていたんだろうか。

振り返れば真新しい制服を身に纏った一人の女子生徒が目を丸くしていた。その姿に自然と顔が綻ぶ。
彼女は覚えているだろうか。いや、そんなこと大した問題ではない。
また出会えた。その事実が俺の世界に色を付ける。

春のあたたかい風が、二人の間を吹き抜けた。



title:10mm.


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