1983.10
これは偶然か、はたまた必然か。そんなことは分からないけれど、前を歩く人がモノを落としたのでそれを拾って渡す。私は人として当然のことをしただけだと思う。
振り向いたのはまだ年若い、と言っても私より遥かに年上な男性。整った顔立ちにやや長めの前髪、肌理の細かい白い肌。何に驚いたのかその蒼い双眸は見開かれていた。
私も不思議と彼の深い海のような瞳に魅入られてしまい、一瞬世界が止まったような錯覚を覚えた。
「……あの、これ、落としましたよ?」
私が右手をずいと差し出すと、男性は我に返ったのか短く返事をしてそれを受け取った。
「すまない。…あんたも、"ここ"の患者か?」
"ここ"というのはつまり今私が入院しているこの病院のことだろう。だからこくんと頷いた。
「お兄さんも、入院してるんですか?」
おじさんと呼ぶには若すぎる彼にそう問えば、検査入院だと返された。
「……じゃあ、きっとすぐお家に帰れますね」
笑いながらそう言えば、彼は少し悲しそうな顔をする。一見無表情で他人からしたら変化なんてないのかもしれないけれど、何故か私には分かった。
「あんたは、すぐには帰れないのか?」
私は返事に困って曖昧な笑みを浮かべた。
帰れない。病気がよくならないから。
たまにお家に帰るけれどそれは一時的なもの。最近では家にいるより入院している期間の方が長いし、学校も病院の中にあるところへ通っている。
「……斎藤」
「"さいとう"…?」
「斎藤一だ。自己紹介がまだだったからな」
いきなり会話が跳ぶ。それは答えたくないものは無理に話さなくて良いと言われているようで安心した。
「……ちづる。雪村千鶴です」
これが一さんとの出会いだ。
1983.12
「一さん!」
「千鶴か。変わりなかったか?」
私がその胸へ飛び込むと一さんは優しく抱き留めてくれる。
検査入院の後も頻繁に受診に訪れている一さん。その度に私のところへ来てくれて、何をするでもなくただ共に過ごすのが日課になっていた。
「!……外は寒そうですね」
「ああ。もう師走だからな」
そっと私を受け止めてくれた手に触れれば氷のように冷たくて吃驚する。
それを暖めるように私の小さな手で包んで息を吹きかける。
すると一さんは僅かに目を細めて微笑んだ。これは"ありがとう"って意味だ。普段言葉の少ない一さん。だけどちゃんと態度で感情を表現してくれる。
私はそんな一さんが大好きだった。
「……ところで千鶴、今日は体調が良さそうか?」
「はい。ここ何日かはすごく調子が良いんです!」
最近、そう、一さんと一緒に過ごすようになってから私の身体は小康状態を保っている。
病が快方に向かっているわけではないと、そもそも私の病気はそう簡単に治るものではないということは何となく分かっていた。それでも体調が良いのは凄く嬉しい。こうして一さんに会えるから。
「そうか。では少し着込んで外に出てみないか?」
「そと……」
そういえば暫く屋外に出ていない。
外には出たいが、先生や看護師さんたちが許してくれないだろう。
無言のままそう目で訴えかければ一さんは合点がいったのかああと小さく呟いてから答えた。
「外と言っても遠くではない。どこか屋根のない場所……そうだな。屋上あたりなら大丈夫だろう」
どうだろうかと少し不安げな表情で訊ねる一さんは、いつもより若干幼く見えて可愛かった。
「それなら大丈夫だと思います。上着取って来ますね!」
答えるや否や私は駆け出した。
「おい、走るな。体に障る」
慌てたように一さんが言うけれど、全力疾走しているわけでもないしこのくらいなら平気だ。
だがここは院内で人に当たったら危ないのも事実。
私は逸る気持ちを抑え、それからは早足で自分の病室へと向かった。
「……やっぱり寒い」
屋上のドアを開ければ途端に冬の空気が突き刺さる。
はぁと息を吐けばたちまち白く染まった。
寒い。だけど私はこの冬という季節が嫌いじゃない。
もちろん他の季節だって大好きだけど、この冷たく凜とした空気は気を引き締めてくれる。
それから、あの人と会ったのも……。
あの人?あの人って、誰だっけ?
頭の奥に眠っている大切な"何か"。
"何か"があることは分かっているのに、その"何か"が何なのかが思い出せない。
「ココアでよかったか?」
「……あ、はい」
一さんの声により、思考の海から引き戻される。手には温かい缶。中身は大好きなココアだ。一さんの方をちらりと見れば彼は缶コーヒーを持っていた。もちろんブラックの。
二人で屋上のベンチに座り、何を話すでもなくぼんやりと空を眺める。あたりを包む沈黙も決して気まずいものではなかった。
「……もうそろそろだと思うのだが」
それまで黙っていた一さんが呟いたので何が、と問おうとしたが、その言葉は私の口内に消えた。
「…きた」
はらりはらりと舞う粉雪。初雪だ。それはまるで春に散る桜のようで、私はその様に魅入る。
そして感じる不思議なデジャヴ。だけどそんな思考を追い払ってしまうくらい、私はこの光景に夢中だった。
「……きれい」
「最初に降るひと粒を、おまえと……千鶴と見たいと思ってな」
寒いだろう、そう言いながら肩を抱き寄せられる。
触れ合った肩が、腕が、全身が熱い。心臓が一際大きく脈打つ。だけどそれ以上にこの腕の中が心地よくて……。
私はその温もりに包まれ、いつの間にか眠りに落ちた。
優しい子守歌
――…千鶴
そう呼ぶ声が鼓膜を優しく揺さぶる。
どんな子守歌よりも、貴方のその声が、私を眠りへと誘うの。
気が付くと、私は病室の自分のベッドで寝ていた。
手に違和感を覚え広げてみれば、そこには薄いピンクの巾着。初めて一さんに会ったとき、拾ってあげたものだ。
あたりを見回してみたけれど一さんの姿はない。
……夢、だったのだろうか。
今度、今度会ったときに確かめよう。
私はそんなことを考えながら、窓越しにちらつく雪を見ていた。
その日以来、一さんは私のところに来なくなった。
これはあとから人伝に聞いた話なのだが、一さんは難病に侵されており、転院先の病室で息を引き取ったらしい。
嗚呼、何で私よりも早く……。
何も言わずに去って行った彼を想い、ひとり涙を流す。
今日もまた、薄桃色の生地に染みが増えた。
title:10mm.