1975.10
鼻腔に充満する鉄臭いにおい。
耳から離れない断末魔。
目の前に広がる赤、紅、アカ。
「…ぅあ!」
銃声とともに自分の心臓が激しく脈打ち、俺は目を覚ました。
寝間着はじっとりと濡れ、脂汗で髪が額や頬に貼り付き気分が悪い。
時計を見ればまだ起床するには早い時間だったが再び眠る気にもなれず、窓を開けて外気を室内に入れる。明け方のひんやりとした風に当たれば自然と気持ちは落ち着いていき、俺はほっと溜め息を吐いた。
小学校に上がったあたりからだろうか。俺は妙な夢を見るようになった。
あるときは着物に浅葱色の羽織を、またあるときは昔の軍服を着ていたりしている。職業も侍であったり教師であったりとその時々によって違う。
それでも共通するのは、どれにも現実味があること。そんなはずはないのに、まるで自分が実際に経験したような感覚。
手に残るのは人を斬った感触。胸に刻まれたのは銃弾に貫かれる激痛。
あまりのリアリティに、俺の精神はおかしくなりそうだった。
こんな夢のことを誰かに話せるはずもなく、俺は成長し、小学校高学年で歴史を習うことになる。
そしてこう結論付けた。この夢は過去の出来事だと。
誰のものかは分からない。"前世"と呼ばれる者の記憶かもしれないし、全くの他人のものかもしれない。
それがどうして今自分の中にあるのかはもっと分からない。
だが歴史を知れば知るほど夢で見た内容と一致して、信じざるを得なくなる。
夢は年を追うごとに鮮明となった。昔は戦場でのことが多かったが、十四歳である今では日常の細かな会話やたわいのない出来事まで見ることがある。
「……今日は、見なかったな」
最近、夢にある女性が現れるようになった。
確かに以前から友人や家族、そのほか関わりを持った者など個人を特定できる人物は度々夢で見ていたが、今回は存在感が違う。ぼやけた世界の中でその人の輪郭だけがはっきりしているのだ。
そういえば、昨日は名前を聞いた。たしか――…
「……ちづる」
その名を唇に乗せれば愛おしさが募り、同時に胸が苦しくなった。銃弾で撃たれるのとはまた違う苦痛。
今も目を閉じれば蘇る、鈴を転がしたような声。俺を見つめるやさしい瞳。甘い匂い。柔らかな髪。心地よい体温。
殺伐とした夢の中で、その存在だけが冬の日溜まりのようにあたたかかった。
会いたい。
そう願ってしまうのはおかしなことだろうか。
人に聞かれたら気違いだと思われるだろう。
この際俺の気が触れていようがいまいがどうでもいい。問題はどのようにして彼女を探し出すかだ。
手掛かりは"ちづる"という名前だけ。そんな女性は世にごまんといる。その中からただひとりの人を探し出さなくてはならない。
それを考えると絶望的に思え、俺はまた溜め息を吐いた。
母の朝を伝える声が聞こえたので返事をする。
どんなに思い悩んでも日々の生活は続くもので、俺は登校の準備を始めた。
件の夢のせいで早く目覚めたために、いつもより余裕を持って家を出ることができた。もちろん普段から遅刻とは無縁であるが。
このまま登校しても始業まで暇だと思い、少し遠回りすることにした。
近所の公園に入れば犬の散歩をする人がいるくらいで辺りは閑散としていた。
風に運ばれて甘くどこかきつい金木犀の香りがする。それに釣られるかのように金木犀へと近づくと先客だろう、華奢な初老の男性がこちらに背を向けて立っていた。
人の気配に気付いたのか、男性がちらりと振り返った。その横顔にはっとする。
似ている。似すぎているんだ。"ちづる"に。
もちろん"ちづる"は女性であるから目の前の彼とは別人だろう。だが、男女の体格差などがあるにしても顔のつくりがあまりにも似ていた。
俺の頭は混乱していて、その顔から目が離せない。いつまでも凝視し続けている俺を不審に思ったのか、男性は訝しげにこちらを見た。
「……何か用?」
聞こえる声は男性のそれにしては少し高かったが"ちづる"のとは別物だ。
「あ、いや……金木犀の匂いがしたもので。つい」
「何?俺が邪魔だった?」
「いえ。そういうわけでは」
「じゃあ何なの?」
「……知り合いに似ていたもので」
「………」
話せることは少ないが、俺はできる限り正直に言った。
やけに刺々しい彼は眉間に皺を寄せながら何か考え込んでいる。
「俺は南雲薫。おまえは?」
「斎藤一です」
名を告げると彼…薫の皺がさらに深くなった。
「……ねぇ、親戚に同じ名前の人いなかった?」
「いないと思いますが」
幕末の世、新選組の幹部として活躍した武士と同姓同名なために、自分の名についてはよく親から聞かされていたがそのような話はなかったように思う。……名前だけではなく、おそらく彼のものと思われる記憶も自分の中にあるのだが。
「そう……でも、俺もおまえによく似た奴を知ってるよ。名前まで一緒だから、もしかしたら親戚かと思ったんだけど」
「それは本当ですか?」
「こんな嘘吐いてどうするって言うの?」
薫は瞼を伏せ金木犀の香りを吸い込んだあと、深く溜め息を吐いた。同時に上げた瞼の隙間から覗いた瞳は、何かを思い出すようにどこか遠くを見ている。
「……本当に嫌な奴だった。妹の心をかっさらってそのまま死んじゃってさ。死ぬくらいなら最初から"戻って来る"なんて言わなきゃいいのに」
俺にというより薫は自分自身に聞かせているようだった。だが彼の口から紡がれる事実と夢での記憶が合致して、俺は自分の体と心が打ち震えるのを感じた。
「あの、その妹さんの名前は……」
何とかそう言葉を絞り出すと、たった今俺の存在を思い出したかのように薫がこちらに視線を寄越した。
「――…ちづる。雪村千鶴」
いろいろあったから名字は違うと付け足すと、遠い日を思い出しているのだろう、薫の目はまたここではないどこかを見ていた。だが俺はそんなことに気を取られている余裕などなくて、薫の両肩に掴みかかった。
「ちづるは……千鶴さんは今どこにいるんですか!?」
薫は一瞬驚いていたがすぐに俺の腕を振り払い、苦虫を噛み潰したような顔でこう言った。
「……遠いところ」
「……?」
「俺の手には届かない、遠いところ。……空の上だよ」
それから薫は千鶴が戦時中に他界したこと、そしてこの世を去るそのときまで戦死した想い人を想い続けたことを教えてくれたが、細かな内容は覚えていない。
ただこのときの俺は、恋い焦がれた人にもう会えない。その事実だけが胸に刺さり、ほかのことなど考えられなかった。
一通り話し終えると、薫はシャツの胸ポケットから白いハンカチを取り出し、さらにそれに包まれた薄桃色の巾着を手の上に広げてみせた。
「これ、妹の……というより妹の想い人の形見。人に預けといて取りに来ないなんて、本当最低な奴だよね」
苦笑いしながら薫はそう言うと、その巾着を俺に差し出した。
「おまえ、きっと斎藤の血縁者かなにかだと思うから。だから、返すよ」
俺は無言で受け取ると、それを握り締めた。すると記憶が走馬灯のように頭の中を流れ出す。
そして確信する。これは俺の記憶だと。自分の身に起きたことだと。
妹に代わって礼を言うよ。そう言い残して薫は去って行った。
俺はというとそこから歩き出すこともできず、ただただ立ち尽くしていた。
満たされることのない心
千鶴――…おまえに会えないと知った今、何のためにこの記憶があるのか。俺には分からない。
空っぽの胸に、金木犀の香りだけが噎せ返った。
title:瞑目