1937.4
「おめでとうございます」
そうひとこと言われて手渡された一枚の紙。
こんな薄っぺらい紙切れ一枚に多くの若者の運命が変えられてきた。
それが今、自分に届けられたのだ。
とうとう来たか。
斎藤一は静かにその赤い紙を見つめながら思った。
「斎藤先生」
「……斎藤先生!」
「…っああ、雪村か」
翌日、同じ学校で働く教師、雪村千鶴に声をかけられ斎藤は我に返った。
斎藤は師範学校を卒業してから地元の小学校で教鞭を執っていた。そこに数年遅れてやって来たのが千鶴だ。
斎藤も千鶴も共に働く中で互いに惹かれ合ってはいたが、想いを伝えることはなかった。
「斎藤先生……どうかされましたか?」
「………」
千鶴が心配そうに斎藤の顔を覗き込む。千鶴の瞳は不安げにゆらゆらと揺れていた。
いずれにしても伝えなければならないことだ。
斎藤は逡巡した後、千鶴と目を合わせ、ひとつ大きく息を吸ってから言った。
「召集令状が届いた」
斎藤が告げれば千鶴は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を戻した。
千鶴はどこかで予感していたのだ。このところ、若い者がどんどん戦場へと駆り出されて行く。だから斎藤に召集令状が届いても何等おかしなことはない。しかし、信じたくなかった。いくらお国のためとはいえ、好いた人を死地に送りたいはずがない。
「……そうですか。おめでとうございます」
ああ、とだけ斎藤は返事をし、それからは暫く二人で静かに見つめ合った。
いくら心が行かないでくれと叫んでも口に出せるのは本音とは正反対の言葉だけで、だから千鶴はせめてもと縋るような目で斎藤を見上げると、自然と目頭が熱くなった。
そんな千鶴を見れば斎藤も胸にこみ上げてくるものがあり、つい自分の想いを伝えたくなってしまう。だが、それも出来ない。これから戦地へ赴く男に想いを告げられても彼女が困るだけだろうから。
千鶴の瞳からポロリと零れ落ちた雫を掬い、斎藤は微笑みかける。
「……どうした?泣いているところを見られては生徒たちに示しがつかないだろう?」
「…はいっ」
しゃくりあげながら返事をする千鶴に斎藤は笑みを深め、優しく頭を撫でてやる。本当はその華奢な体を抱き締めてやりたいところだが、ここは学校であるし、そもそも自分と彼女はそのような関係ではない。斎藤は空いている手を強く握り締めた。
そこでふと斎藤は思い付き、片手でズボンのポケットを漁ると中のものを千鶴に渡した。
「これを預かってくれないか?」
「……巾着、ですか?」
千鶴が首を傾げながら訊ねると斎藤は肯定するように頷き、懐かしむように目を細めた。
「"また会える御守り"だそうだ」
「誰かからいただいたものなんですか?」
「ああ」
千鶴の手に乗る少し色褪せてしまった薄桃色の巾着を見つめながら、斎藤は遠い日に想いを馳せる。幼い頃訪れた北の地で出会った女性。もうその人の顔も思い出せないが、それでも斎藤は言い付け通りに巾着を持ち続けた。
ゆえに、斎藤にとっては大切なものだ。
「……私が持っていていいんでしょうか?」
「あんたになら、いや、あんたにこそ託せるものだ」
今まで誰にも触れさせず、誰にも見せず、誰にも存在を覚らせなかったそれを、千鶴になら任せられると思ったのは何故だろうかと斎藤は考える。
これも運命なのだろう。ひどく陳腐な言葉かもしれないが、ここで千鶴に託す以外の選択肢など斎藤にはなかったのだから。
出立の日、千鶴が駅まで斎藤を見送りに行けば、他にも出頭する人がいるのだろう、万歳、万歳と声が聞こえてきた。斎藤も見送りの者たちからしきりにおめでとうなどと声をかけられている。
駅舎のすぐ隣に立つ桜が散る様を眺めていれば、斎藤が近付いてきたので千鶴は声をかけた。
「……綺麗ですね。儚いですけど」
「そうだな。だが、俺も最期はこの桜のように潔く在りたいと思う」
まるで死を覚悟しているような言葉に、千鶴は斎藤を睨み付けた。
「――…っ何を、言っているんですか?貴方は戻って来るんでしょう?これを受け取りに」
言いながら千鶴が渡された巾着を取り出せば、そうだったなと斎藤は薄く笑った。
「必ず、俺は帰ってくる。国のために。……また、あんたと会うために」
斎藤の目は力強く千鶴を射抜く。斎藤は嘘を吐かない。目を見れば分かる。しかし千鶴の言いようのない不安は募るばかりだ。
軍に入るのは、お国のために戦えるのは名誉なことだ。今までそう教えられてきた。それでも思ってしまう。何故彼なのだろうかと。何故自分から彼を奪うのかと。
――…また、置いていかれるのですか?
無意識に千鶴から零れた言葉。口にした本人は気づいていないようだが、斎藤にははっきりと聞こえていた。その言葉に、斎藤の心はひどく揺さぶられる。
何か、何か忘れている。とても大切な何かを。
頭の中がちりちりとし、あともう少しなのに思い出せない。斎藤はそのことに焦りを感じていたが、発車時刻が近付いていたため皆に挨拶してから列車に乗り込む。
列車が走り出しても、斎藤は窓から駅を振り返ろうとはしなかった。愛しい人を見れば別れが余計に辛く感じるだろうから。
車窓の四角い景色をぼんやり眺めていると、斎藤の耳に僅かな声が届いたような気がした。それを聞いた瞬間、自分の奥底に眠った記憶が蘇る。
嗚呼、そうか。そういうことか。
斎藤はひとり穏やかな笑みを浮かべながら口を開いた。
「――…ちづる」
今度は、ちゃんと返せたな。
「はじめさん……」
汽笛の音と共に列車は走り出した。
千鶴は去り行く人を見送りながら涙を流す。
視界の隅で、静かに桜が舞っていた。
死にに行く背中
(愛しい人の後ろ姿は、こうも儚いのものだったか)
三ヶ月後の七月、北京郊外で起きた廬溝橋事件を皮切りに、日本と中国の間で全面戦争が始まった。
後の日中戦争だ。
それから日本は、否、世界は激動の時代に突入することとなる。
斎藤が戦死したとの知らせを受けたのは、それから更に数ヶ月経った初冬のことだった。
「……嘘吐き」
そう呟けばその息さえも白く染まる。
空から降ってきた雪は吐く息よりも更に白い。
初雪だ。
真っ白い雪が地表に舞い落ちる様は、どこか春に散る桜に似ていた。
title:瞑目
※"廬溝橋事件"の正しい漢字は"廬"からまだれを取ったものです。