当時七歳であった俺は出産を控えた母の負担を減らすためにと、遠い親戚に六月から七月までの二ヶ月間預けられることになった。

東北の中でも最も北に位置する青森県は七月になっても梅雨が明けておらず、空気が湿り肌寒い。

俺は大人になってからでもそうだが、無口で物静かな子供だった。だから特に親戚の手を煩わせるでもなく、よく縁側で雨の降る様をぼんやりと眺めていることが多かった。

しかし、子供は子供。遊びたい盛りである。晴れた日には近所を探検したりした。

これは、その折に出会った或る女性との話だ。






1915.7


ぴしゃっ

足元で水溜まりが跳ね下駄を濡らす。

久々に晴れ渡る空の下、俺は親戚宅の近隣を歩き回っていた。日差しがじりじりと肌を焼き、昨日までとは打って変わってかなりの暑さだ。

普段自分が住む関東とは違う土地、違う気候、違う言葉、違う人々。俺はきょろきょろと興味深げに辺りを見る。

近所の子供たちとは馴染めなかった。俺が無口で無愛想であったことに加え、ひとつの集団、とりわけ子供というのは余所者や異質なものを拒むものだ。だが親戚家族は皆優しくしてくれていたし、俺自身友人を欲していたわけではなかったのでよく独りで遊び歩いていた。


一刻ほど歩いたときだろうか。俺は現在自分が何処にいるのか分からなくなってしまった。……いわゆる迷子である。

大人びていたとはいえやはり幼子であった俺は不安と焦燥感に駆られた。表情にこそ出ていなかったと思うが、何とかせねばと出鱈目に歩を進める。

次第に早足になり、終いには走り出していた。湿った空気と噴き出す汗で着物がべったりと肌に貼り付くのが気持ち悪い。体力と思考力だけが奪われていく。


――…歌?


ぼんやりとした頭で途方に暮れていたときだ。女性のものだろうか?綺麗な歌声が聞こえて来る。俺は吸い寄せられるように声のする方へ向かった。


一軒の民家の前で足を止める。その家は極一般的な造りで、特に変わったところは見当たらない。しかし何故だろうか。懐かしさを覚える。ただ単に『既視感』というやつなのかもしれない。だがその一言で片付けるにはあまりに複雑で繊細な感覚だった。俺はそれが当たり前の行為であるかのように、家の庭先へと回り込んだ。

そこには縁側に腰掛け歌うひとりの女性の姿があった。その女性は少女のような老婆のような……どの年代にも当てはまらない、どこか浮き世離れしたような空気を纏っていた。

「……どなたかしら?」

それまで伏せられていた瞼を上げれば澄んだ栗色の瞳が俺を見つめた。その刹那、自分の心臓がどくりと脈打つ音を聞く。一方女性の方は俺を見るや否やその顔に優しい笑みを浮かべた。

「――…やっと、来てくださったんですね」

「……え?」

女性の呟きの意味が分からず、俺は間抜けな声を上げた。それに女性は気分を害すこともなく、ただ笑みを深める。

「いいえ。気になさらないでください」

言いながら女性は縁側から降り、俺の目の前に来てちょこんとしゃがんだ。間近で見る女性の顔に俺の頬は赤くなっていたことだろう。

「凄い汗ね」

女性はくすくすと笑い、持っていた手拭いで俺の顔や首筋を拭いてくれた。それが子供扱いされているようで多少気に入らなかったが女性から見たら今の自分が子供であることは事実。されるがままにしていた。

「貴方は何処の子?」

親戚の家を伝えると、女性は困ったように笑った。

「それってちょっと遠くね。……もしかして迷っちゃったかな?」

正直これを認めるのは恥ずかしかったがここで嘘を吐いても意味がないのでこくんと頷いた。

「そっか。でも先に何か飲んだ方がいいわね。のど渇いたでしょう」

座って待っていてねと言われ、俺は縁側に座り女性を待つことにした。風が吹き、日陰ということもありかなり涼しい。

「はい。お待たせ」

女性に水が入った湯飲みを差し出されたので礼を述べながら受け取り一気に飲み干す。自分で思っていた以上にのどが渇いていたらしい。湯飲みはすぐに空になった。


それから暫く縁側で二人、涼んでいた。特に会話はない。ただ風で草木が揺れる音や虫の音ばかりが辺りを包む。だが不思議と気まずさは感じず、寧ろ心地よかった。ずっとこのままで……と願っても時は進むもので、夕暮れ近くになり、帰り道の分からない俺は途中まで女性に送ってもらうことになった。


「じゃあ、もう迷わないようにね」

女性は優しく頭を撫でてくれた。その手が、その声が何故か無性に愛おしく離れがたいと感じ、俺はそっと左手で女性の着物を掴んだ。

「また、会えますよ」

それだけで女性には俺の意志が伝わったようだ。だが俺は着物を掴む手を離すどころか逆に強く握り直した。どうしてだか分からないがこの女性を手放してはならぬと思ったからだ。

「早く帰らないとお家の方が心配されます」

「………」

俺は無言のまま目で女性に訴えかけた。女性は眉を八の字にして心底困った、という顔で何やら考えていたようだがぱっと表情を明るくして口を開いた。

「ああ、そうだ。また会えるように御守りあげます」

女性はニコニコしながら袂から何かを取り出し、俺の右手に握らせた。

「いいですか?肌身離さず持っていてくださいね」

そうすればまた会えますよ、女性はそう俺の背を押す。俺は後ろ髪引かれる思いだったが振り返らずに家路を急いだ。また女性の顔を見てしまったら、今度こそ俺は帰れなくなると分かっていたから。



それから毎日、俺は再び女性に会おうとあの家を探し回ったが結局見つかることはなかった。





思い出せない記憶





青森を発つその日、か細く自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして、俺は辺りを見回した。だがそこに俺の求める姿はない。


嗚呼、俺はこの声の主を知っている。

答えてやらねば。名を呼んでやらねば。


―…


その名はのどまで来ているというのに口には出ない。

思い出せない。思い出せないのだ。

ひどく大切な言の葉のはずなのに。






title:雲の空耳と独り言+α


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