1894.9


「はじ…めさん……」

はらはらと流れる私の涙。だけどそれを拭ってくれる手はもうそこにはなくて、変わりにあたたかな唇が私の涙を吸い取った。

「千鶴……笑ってくれ。俺は千鶴の笑顔が好きだ」

泣き顔は閨でだけでいい、とそんな軽口を叩きながら一さんは微笑んだ。

私は口角を上げるけれど頬は引きつるばかりで上手く笑ってくれない。

一番怖いのは、辛いのは、苦しいのは一さんなのに、その一さんはこんなにも綺麗な笑みを私にくれるのに、私は一さんに何も返せない。本当はこんな表情をしたいんじゃないの。貴方の瞳には綺麗な私を焼き付けて逝ってほしい。

「千鶴、それを持っていてくれ。肌身離さずにだ」

「……はい」

私は手に持つ巾着をぎゅっと握り締めた。これは斗南に来たばかりの頃に私が一さんに預けたもので、先程彼から返された。

「随分と古くなりましたね」

「それだけ俺と千鶴が共に在った証だ」

そう言葉を交わす間にも一さんの身体は灰と化していく。灰が陽光を受けてきらりと輝いた。

「――…っはじめさん!!」

それが嫌で私は彼の背に手を伸ばした。








1870.5


北の地・斗南にも遅い春が訪れた。

山のあちらこちらが薄紅色に染まり、吹き抜ける風もあたたかい。


私は針を運ぶ手を休め、穏やかな気持ちで庭に視線を移した。

「何を繕っているんだ?」

その声に振り返れば、そこには愛しい人の姿。

今日は非番ということで日中でも家にいる。しかし休暇中といえども鍛錬を怠ることはない。今も素振りを終えたところだ。

「ふふっ、何だと思いますか?」

一さんが私の隣に座し、手元を覗き込んだ。

「……巾着か?」

「正解です」

たった今完成したばかりの巾着を手渡すと一さんはしげしげとそれを眺めた。

「千鶴、俺の記憶が正しければこの布は…」

「はい。もう着ることはないでしょうし、勿体無いと思ったので」

その巾着に使った布は江戸から京に向かう際に、つまり新選組と共に行動していたときに着ていた着物を再利用したものだった。

綺麗な薄桃色の着物も厳しい戦渦を潜り抜けてきたために擦り切れ、所々に血の痕が残ってしまっていている。とてもじゃないが着られる状態ではない。

「でも、作ったのはいいんですが何に使うか考えてなくて……」

「そうか……」

左手を口元に当てて暫し考え込む一さん。

「……ならば、俺に預けてくれないか?」

「え、一さんが使うんですか?」

「……だめか?」

「いえ、そういうわけではないんですけど……」

薄桃色の着物から作られたそれは男性が持つには適さない。そもそも普段一さんが好む色ではなかった。

「あの、何に使うんですか?」

「入れたいものがある」

「“入れたいもの”……ですか?」

「……ああ」

一さんは少し耳を赤くしながら答えた。目は明後日の方向を見ている。……理由はよく分からないけれど、どうやら照れているらしい。

「一さんが使ってくださるなら嬉しいです」

「そ、そうか……」



どうして一さんが照れていたのか、訳は聞かなかった。ただ嬉しそうにはにかむ姿を見ているだけで幸せで、理由を知る必要もないと思ったから。


私たちは寄り添いながら幸福に満ちた日々を過ごした。











両の腕に抱いたのは貴方の温もりが残った漆黒の着物。


嗚呼、逝ってしまったのか。


私は着物に顔を埋めて声もなく泣いた。着物には私の涙が染み渡り、一さんの体温ばかりが失われていく。

着物を抱き締めながらも、私は手にしたままだった巾着をそっと開けてみた。

「……これ…」

中から出てきたのは使い古された赤い結い紐。夫婦になるずっと前、私が男装していたときに身に着けていたものだ。

「だから、照れていたんですね……」

今となっては遠い、この地に越して来たばかりの頃の日々に思いを馳せる。




ふと、“赤い糸”について思い出した。

いつか結ばれる男女は小指が見えない“赤い糸”で繋がっているらしい。

たしか元は“赤い糸”ではなく“赤い縄”で足首が繋がれているという話だった気がする。


なら、“赤い結い紐”でもいいのではないだろうか?

“紐”ならちょうど“縄”と“糸”の間の太さだ。


――それを持っていてくれ。肌身離さずにだ――


一さんの言葉が頭に蘇る。

もしかして、彼も同じ事を考えていたのかもしれない。

伝説では目に見えないものだったけれど、彼はこうしてかたちあるものを残してくれた。……これから私が生きていくために。

「――…待っています。いつまでも」



私たちの“赤い糸”がふたりを導くまで。

再び、貴方に逢える日まで。




秋の風が、散らばる灰を攫っていった。







title:10mm.


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