『名前』
窓辺から差し込むあたたかな陽光と漂う珈琲の香りに千鶴はうとうとと船を漕ぐ。と、そこに別の温もりと匂いを感じてゆっくりと瞼を上げた。
「ん、寝てていいぞ」
「せん…せ」
千鶴は目をゴシゴシと擦りながら居住まいを正そうとしたが土方に肩を抱きすくめられていたためにそれは叶わなかった。千鶴は大人しく諦めて土方の胸に顔を埋める。すると途端に土方の体温と匂いを強く感じて嬉しくなった。
二人で過ごす穏やかな時間。特に何をするでもなくただ寄り添っているこのときが千鶴にはとても幸せで、そこには愛の囁きすらいらないくらいに感じた。言葉にせずとも土方の眼差しが、優しく自分を抱く腕が、愛おしさを伝えてくれるからだ。
だから、千鶴はふと思ったことを口にした。
「どうして言葉があるんでしょうね」
「……あ?」
千鶴の独り言のような問いかけに土方は間抜けな声を上げてしまった。
「今、何て言った?」
「だから、どうして言葉があるんでしょうね」
「……逆に聞くがどうしておまえはそんなこと考えたんだ?」
「いえ、ただ何となく疑問に思っただけなんですけど……。先生はどう思いますか?」
「そうだな……。とりあえず意志疎通するのに便利だからじゃねえか?」
「本当にそうでしょうか?私は言葉がなかったらなかったで何とかやっていったんじゃないかなって思います。それに、言葉は嘘を吐きますし」
「そりゃ言葉を扱う人間の問題だろ」
「でも目は嘘を吐きませんよ」
「……じゃあおまえは言葉なんてなかった方が良いって思ってるのか?」
千鶴は口元に手を当てて暫し考え込む。そして土方の目を真っ直ぐに見つめながら口を開いた。
「ない方が良い、とまでは言いませんけど、なくても良かったと思います。言葉じゃなくても気持ちは伝わりますし」
「俺はあって良かったと思うけどな」
千鶴は少し目を見開き驚いたような顔をした。
「……どうしてですか?」
「それは教師としての意見を聞いてるのか?それとも……俺個人の意見か?」
「先生個人の意見です」
千鶴の答えを聞き、そうかと呟きながら土方はにやりと口角を上げた。
「じゃあ名前で呼んでくれねぇとな」
「えっ」
「"先生"の意見を聞きたいんじゃないだろ?」
「……どうしてそう思うんですか?ひじか……」
「土方?」
続きを促すように土方がそう言えば千鶴は頬を染める。
「………と、歳三さん」
「それだ」
「……え?」
土方は優しく微笑みながら千鶴、と名前を紡ぐ。
「おまえが俺の名を呼んで、俺がおまえの名を呼べる。これが出来ねぇなんて悲しすぎるだろ」
「……歳三さん」
そうだ。"言葉"がなかったらもちろん"名前"もない。こうして土方の低く心地良い声で呼ばれることもない。
「世の中の出来事やモノの起源なんて後からいくらでも理由付けできるんだよ。だったらそんなこと気にするよりも今あるモノを大切にする方がいいじゃねぇか」
「――…そう、ですね。私もそう思います」
千鶴は一言ひとこと噛み締めるように口にするとふわりと笑った。
どうして言葉があるかなんて、大した問題じゃない。互いの名を呼び合える喜び。それだけ感じていれば良い気がした。
「歳三さん」
「ん?」
どうした?、と言うように土方が千鶴を覗き込めば千鶴は笑みを深める
「歳三さん。歳三さん歳三さん」
「おいおいどうした?」
「ふふ、いえ、幸せだなぁと思いまして」
「……そうか」
俺も幸せだよ、言いながら土方は千鶴を抱く腕に力を込めた。
ああ、やっぱり言葉があって良かった。
そう思いながら千鶴はその腕に頬を寄せた。
fin.
え、オチが微妙?
気にしちゃいけませんよ(`・ω・´)
千鶴ちゃんがちょっと厨二っぽいのは若いからいろいろ考えることがあるんでしょうよ。たぶん。