『熱』
「休み……?」
「ああ。風邪ひいちゃったみたいでさ」
週始めの月曜日の朝、俺はいつものように遅刻してくる生徒を取り締まるべく校門前に立っていた。
そこへ1年の藤堂平助が登校してきた。遅刻の常習犯である彼にしては早めの登校である。しかし、どことなく元気がない。そして何よりいつも一緒に登校して来ている彼の幼なじみ、雪村千鶴の姿が見えない。
このふたり、交際しているわけでもないのに毎朝手を繋いで登校してくる。正確には千鶴が平助に手を引かれ走って来ているだけなのだが。
それを総司がたびたび引き離しているのを目にする。彼は自分の感情に素直だ。正直なところ俺自身も平助が千鶴の手を取っている姿を見るのは面白くない。だが、かと言って総司のようにふたりの間に割ってはいるようなまねはできない。できないし、そんな資格もない。自分は千鶴にとってはただの先輩なのだから。
千鶴がいないことが気になり平助に訳を訊ねたところ、本日千鶴は学校を休むということを伝えられ、現在に至る。
「……それで、具合はどうなんだ?」
「熱が38度5分。インフルかもしれないから今日病院行くってさ」
「……そうか」
それだけ言うと、平助はじゃあなと手を軽く振りながら昇降口へと歩いて行った。その背中は頼りなく、彼の心情を雄弁に語っていた。
「…………」
休み時間、俺は頭を悩ませていた。
「一君、何してるの?」
「……総司か」
視線を声のした方へと向けると、総司がいつもと変わらぬ底の見えない笑みを浮かべていた。
「朝から思案顔だよね、一君。珍しくケータイと睨めっこなんかしちゃってさ」
総司は俺の手元の携帯電話をチラリと見ながら言う。
「別に俺が休み時間に何をしようと勝手だ」
「ふーん。僕はてっきり千鶴ちゃんへのお見舞いメールをどうするかについて悩める斎藤先輩の図に見えたんだけど」
「……あんたには関係ない」
総司の言うことは図星だった。
俺は朝平助から千鶴のことを聞いてからというもの、休み時間になると携帯電話を開き、メール作成画面を見ては一向に動こうとしない自身の親指に苛々としていた。
「ふーん。そう言うならいいけどさ、なんだったら直接お見舞いに行けばいいじゃない」
「見舞いに?」
「そ。ホントは僕が行きたいとこなんだけど、近藤さんに呼ばれてるし」
総司は自分の感情に素直だ。だがそれ以上に校長の近藤先生に従順なのだ。
「………」
見舞いか。しかし、自分が行っていいものなのだろうか。
「それにしても、よりによって今日休むなんてねー。僕楽しみにしてたのに」
俺が逡巡していると、総司がそう言って、深い深いため息を吐いた。
「今日雪村が休むと何か不都合があるのか?」
「え?」
もちろん千鶴が休んでも気にならないという日はないが、特別今日休んでほしくない理由などあっただろうかと思い、総司に訊ねた。
すると総司は珍しく驚いたような顔をしたので、俺は首を傾げる。
「……一君、今日って何の日?」
「月曜日だが?」
そして古典の小テストがある、と付け加えると、総司はそれを無視してもう一度先程よりも盛大なため息を吐いた。
「……君って、ホントに日本人?あ、まさか帰国子女だったりしない?」
「生まれも育ちも日本だ」
俺がそう答えると総司はだよね、と言って自分の席に戻ろうとする。だが、途中でピタリと立ち止まり、俺に一言投げかけた。
「今日お見舞い行って千鶴ちゃんに訊いてみなよ」
放課後。俺は千鶴の家に向かっていた。
片手にエコバッグをぶら下げて。中には見舞いにとスーパーで見繕った林檎とスポーツドリンクが入っている。
自分が千鶴の家に見舞いになど行っていいものか悩んだが、総司の言葉を言い訳にして、結局は行くことにした。
千鶴の家に着き、呼び鈴を鳴らす。
よくよく考えると何の連絡もなしに彼女の家まで来てしまった。これはさすがにまずいかもしれない。
そんなことを考えていると内側からガチャリと鍵の開く音がしたので、俺は腹を括ることにした。
スッとドアが開き、パジャマにカーディガンを羽織った千鶴が出迎えてくれた。いつもひとつに纏められている髪はおろされ、彼女が動いた拍子にぱらりと前に落ちる。
「斎藤先輩、どうされたんですか?」
熱のせいでいつもより赤みを増した顔は、少し驚いているように見えた。それは無理もないのだが。
「今朝方平助からあんたが風邪をひいたと聞いたゆえ、何か不自由していないかと思い来た」
我ながら素っ気ない言い方だと思う。何故素直に心配していると伝えられないのか。いつもは助けられている感情を表に出さない自分の性質が今は恨めしい。
「お見舞いに来てくださったんですか?」
「……ああ」
すると千鶴は嬉しそうにふわりと笑った。彼女はいつも、俺が口に出さずとも俺の気持ちを汲んでくれる。それが堪らなく心地良い。
「上がってください」
「邪魔をする」
「林檎ですか?」
家に上がると、俺に茶を出そうとする千鶴を慌ててベッドに押し込んだ。
自己を顧みず他者を気遣うというのは確かに千鶴の長所だ。だが時と場合によっては短所にもなる。
本当に、彼女は自分が病人なのだと分かっているのだろうか?
台所の包丁や皿を拝借し、買ってきた林檎の皮を剥き食べやすい大きさに切って千鶴のところへと運んだ。
「食欲がなくても食べやすいと思ってな」
俺は水分補給も大切だと言い、買ってきたスポーツドリンクをサイドテーブルに置く。
「………ふふ」
「どうした?」
その様子を見ていた千鶴が笑い出した。
千鶴が笑うのは嬉しいかぎりだが、如何せんその理由がわからないために反応に困る。
「いえ。ありがとうございます。スポーツドリンク切らしてて、助かりました。それから林檎も。これなら食べられそうです」
それでも千鶴はクスクスと笑い続ける。
「だから何故笑っているのだ?」
「え、ああえーっと……」
千鶴は言い淀みながらも言葉を繋ぐ。
「なんだか先輩、お母さんみたいだなと思って」
「なっ!?」
千鶴は笑いを堪えながら林檎を音を立ててかじる。
俺はその横でひとりうなだれた。自分は家族のような位置付けなのかと思うと自然と気持ちが沈む。
「斎藤先輩?」
そんな俺を千鶴が心配そうに覗き込む。いかん。見舞いに来たのに病人に心配をかけては元も子もない。
「いや、何でもない。それより平助や総司も心配していた。症状はどうなんだ?」
俺はなんとか気を取り直し、千鶴に訊ねる。
「あ、はい。熱はちょっと高めですけどインフルエンザではないみたいなので今週中には学校に行けると思います」
「そうか」
インフルエンザではないと聞き一安心した。今週ずっと千鶴に学校で会えないかもしれないと思うと憂鬱だったからだ。
そこでふと俺は思い出したことを口にする。
「雪村、今日は何の日だ?」
「え?」
「俺が『今日は月曜日だ』と答えたら総司があんたに訊いてみろと言った。わかるか?」
「え、えっと……」
千鶴の大きな瞳が右へ左へと彷徨う。どう答えるべきか迷っているようだ。
「曜日は関係ないんです。斎藤先輩、まず今日が何月何日だかわかりますか?」
「………2月14日だ」
俺は少し考えてから口にする。間違ってはいないはずだ。
「そうです。2月14日です。2月14日と言えば、何の日ですか?」
「…………あ」
俺は口元に手を当て、暫し考える。そして導き出された答えに間抜けな声を上げた。
「『バレンタインデー』か」
「はい」
なるほど。それならあの総司の態度や平助の落ち込みようにも納得がいく。ふたりとも千鶴からチョコレートを貰うことを期待していたのだろう。
それにしても、自分の行事に対する無頓着さには呆れてしまう。『バレンタインデー』といえば今日ではすでに国民的行事である。
そこで新たな疑問が浮かび、それが意図せず唇から零れ落ちた。
「渡さなくていいのか?」
「え?」
「あ、いや。あんたも女子だ。誰かチョコレートを渡したい相手くらいいるだろう?」
「……………」
千鶴は俯き、黙り込んでしまった。
俺はさすがにこの質問は不躾だったと後悔したが、言葉は口の中には戻ってくれない。
それにこれは少し、否かなり気になることだ。
俺も健全な男子高校生。好意を寄せる者に誰か好いている相手がいるのかいないのかというのは重要な関心事だ。
だが同時に、それを知るというのはその場で想いも告げられないまま即失恋にも繋がりかねない危険行為でもある。
それでも答えを待った。恐れよりも好奇心が勝ったからだ。もう自棄になっていただけかもしれないが。
「………斎藤先輩は、いらっしゃらないんですか?」
「……?」
千鶴はゆっくりと顔を上げ、俺の瞳を真っ直ぐに見つめた。熱のためか潤んだ彼女の瞳に自分の困惑した顔が映り込む。
「チョコレートがほしい相手」
「………」
俺は千鶴を見つめ返すことしかできない。
自分の胸の内を明かし、現在の関係が崩れるのが、何より彼女に拒絶されるのが怖かった。
本当は想いを告げられずに失恋するより、想いを告げてふられる方が辛いのだろうという考えに初めて至った。
こんなにも臆病な俺が何か答えられるはずもなく、それでも千鶴は特に言及せずに話を続ける。
「私は……います」
「………そうか」
聞きたくない。心ではそう叫んでいたが、それは喉元まで来て口から出ることなく胸の中に消えた。
自分は失恋したのだと悟った。
だがその悲しみや喪失感は殆ど顔に出ない。先程は恨んだ自分の性質に今度は感謝した。
千鶴はサイドテーブルに置いてあった紙袋を手に取り、それはそれは愛おしそうに両腕で抱え込む。
「だけど肝心の今日、風邪をひいて熱を出してしまって。ああ、せっかく作ったのに渡せないんだなって、ちょっと落ち込んでたんです」
「………」
「そんなとき斎藤先輩がいらして。それから少し悩んでたんですけど、決めました」
にこりと満面の笑みを浮かべ、千鶴は俺にその紙袋を差し出した。
「ご迷惑かもしれないんですけど……」
「わかった。……それで、誰に渡せばいいんだ?」
「………へ?」
俺の言葉に、千鶴はきょとんと首を傾げる。俺は何か可笑しなことでも言っただろうか?
「風邪をひいたあんたの代わりに俺に届けてほしいんだろう?」
「え!?そんな、違いますよ!!」
千鶴はブンブンと頭を横に振りながら力説する。そんなに勢いよく振ったら頭に響くだろうに。
「……ではなんだ?」
「で、ですから受け取ってほしいんです。斎藤先輩に」
「………は?」
俺は本日何度目かになる間抜けな声を上げた。
つまり、これはどういうことだ?
「雪村、あんたがチョコを渡したい相手というのは……」
「斎藤先輩です!!」
千鶴は呆然としている俺に紙袋を押し付け、ベッドに潜り込んでしまった。
「斎藤先輩がお見舞いに来てくださって、とっても嬉しかったんです。心配してくれてるんだって。あと、今日はバレンタインデーだからって少し期待なんかもしちゃって」
「………」
「だけど斎藤先輩、バレンタインデーなんて頭にないみたいですし、それに斎藤先輩すごく人気がありますから……私が渡したら迷惑かもしれないと思って」
「……雪村」
「でも、それでも渡したくて。だって、私、斎藤先輩が……」
「雪村」
俺は千鶴の言葉を遮り、彼女に呼びかける。
布団越しでも千鶴がびくりとするのが分かった。
「雪村、出てきてくれ」
さっきより語調をやわらかいものにしてそう促すと、千鶴はおずおずと布団から出てきた。
「……!!」
俺は千鶴を正面から彼女が痛がらないように、だが力強く抱きしめ、首元に顔をうずめた。
千鶴の少し高めの体温と、脈打つ心音が伝わってくる。
「さ、斎藤先輩!?」
「あんたが好きだ」
秘めた想いが、堰を切って溢れ出す。唇から零れる。
「俺は、千鶴が好きだ」
拘束する腕の力を緩め、今度は彼女の顔を見ながらもう一度。
「私も、斎藤先輩が好きです」
千鶴はそう言って微笑んだ。
俺はそっと千鶴の頬に手を添え、上向かせた。そしてどちらからともなく瞼を伏せる。
俺たちは、熱を共有した。
fin.
バレンタインでフリー配布したものです。
斎藤さんがヘタレですね。あれ?
バレンタインというよりは看病ネタのような……いやいやバレンタインだよ!
行事に疎い斎藤さんが書きたかったんです。