『やさしい味』
カタカタとキーボードを叩く無機質な音が部屋に響く。
「……少し休憩するか」
俺は軽く伸びをして、座っていた椅子の背に凭れかかった。同時に机の上にちょこんと置かれたマグカップに手を伸ばす。これは千鶴と買い物に出たときに買ったもので、彼女も色違いの同じものを持っている。因みに色は俺が紫、千鶴が薄い桃色だ。桜色といってもいいかもしれない。
マグカップの中は半分くらいまで黒く冷めた液体、珈琲で満たされていて、それを口に含む。すると独特の苦味が俺の味覚を刺激した。
そこで急に胃が痛みだし、そういえば胃薬を飲んでいなかったと思い、薬の瓶を探す。
胃薬の入った瓶は机のペン立ての脇に、まるで隠されるようにして置かれていた。上体を僅かに起こしてそれを手に取る。
慣れた手つきで蓋を開け瓶から錠剤3粒を取り出しそれを口に放り込む。手近に水がなかったので、マグカップの中の珈琲で錠剤を飲み下した。
一気に体内に入る液体に、思わず眉間に皺を寄せ、顔をしかめる。
「土方さん、失礼します」
パタンとドアが開く音と共に千鶴が室内へと滑り込む。手には何かが乗った盆を持っていた。
千鶴はよく頃合いを見て、この仕事部屋まで俺に茶を煎れてきてくれる。
千鶴の姿に、自然と頬が緩む。普段は見せないこんな表情を職場の連中が見たらどう思うだろうか。
「もう、珈琲ばっかり飲んでたら駄目です。しかもブラックで」
お茶なら言ってくだされば煎れますのにと言いながら千鶴は俺の手からマグカップを奪い取る。
この珈琲は千鶴がいないときに自分で煎れたものだ。本当は日本茶の方が好きなのだが、眠気覚ましにとついつい珈琲ばかり飲んでしまう。
「こちらの方が、胃には良いはずです」
そう言って、千鶴は盆に乗っていたものを俺に差し出した。
「……おい、これは何だ?」
俺は千鶴からそれを受け取りながら訊いた。
「何って、お味噌汁ですよ」
千鶴は大輪の花が咲いたような笑顔を見せる。
その笑顔は思わず見惚れてしまうほどのもので……いやいや、俺が訊きたいのはそういうことではない。
たしかに手渡されたのは茶碗に入った味噌汁だった。そんなことは見ればわかるのだそんなことは。
「いや、だからよ。何で味噌汁なんだ?」
そう質問を変えると千鶴はきょとんと首を傾げる仕草をしたが(その姿はそれはそれは愛らしかった)、すぐにふわりとした笑顔を浮かべる。
「ですから、こちらの方が胃には良いからです」
俺に箸を渡しながら千鶴は答える。
そこで一度言葉を区切り、千鶴は心配そうに眉を八の字にして俺を見つめた。
「最近、胃の調子、よろしくないんですよね」
千鶴はチラリと机上の胃薬を見やる。
千鶴には胃の調子が悪く、薬を飲んでいたことは伝えていない。別に隠していたわけではないが、敢えて教えることもないだろうと思い、黙っていた。が、どうやらお見通しだったようだ。
「たく、お前には適わねぇよ」
俺は今、苦笑いを浮かべているんだろうが、それは一種の照れ隠しだ。
それを心得てる千鶴が、今度は嬉しそうに、少し恥ずかしそうにはにかんだ。本当に、コロコロと表情を変える忙しいやつだ。
ずずっと音を立てながら味噌汁を啜る。
味噌と出汁の風味が口内にだけではなく、体中に染み渡る。
それはとても心地好い、やさしい味だった。
「やっぱり、良いな」
俺がそうしみじみと言うと、ですよね、と千鶴が微笑みながら答える。
俺が『良いな』という言葉に込めた想いすべてを、千鶴は理解していない。だが、それでいいと思ってしまう。
「おかわり、まだありますから」
「ああ。すまねぇな」
こうして自分を気遣ってくれ、やさしく微笑みかけてくれる。それが堪らなく心地好く、愛おしいと思っているなんて、今は伝わらなくていい。
まあ、いずれゆっくりと思い知らせるつもりだが。
そのときを思うと自然と口角が上がり、意地の悪い笑みが浮かぶ。それを見て何かを感じ取ったのだろう千鶴が表情を引きつらせたが、気付かないふりをして残りの味噌汁を飲む。
ただ、今はこのやさしい味に浸っていたかった。
fin.
よい子のみなさんは胃薬をコーヒーなんかで飲まないでくださいね。