柔らかく身体を包む温度が誰のものかは知っている。 油断ならぬ相手であることも、憎しみすら抱く人物であることも。 けれど目を閉じていれば不確かだ。 甘い睦言も、名を呼ぶ声も不要なれど。 生温い体温だけは欲しいと願う。 だから目を閉じ、意識を閉ざし。 夢幻の如き熱のみを食む。 カラリ、と障子を開ける音がした。うっすらと目を開ければ布団の上に投げ出した手の甲に淡い光が差している。 いつ眠ったのか覚えていない。普段、小さな物音でも目が冴えてしまう三成には滅多にない深い眠りであった。 そう、昨晩の行為こそが夢であったのではないかと思うほどに。 「もう起きたのか。早いな」 己のものではない、さっぱりとした声に視線をやる。半分開いた障子の間、光を背に立つ家康は夢ではなかったのだと知らせるように上半身を晒していた。 「喉が渇いただろう? 水を取ってきた」 言葉のとおり、布団に近付いてくる家康の手には盆があった。その上に渋柿色の茶瓶と、薩摩のものだろうか、硝子で出来た透明な器が乗っている。誰かに言いつけて持ってこさせたか、いや家康以外の人間が近付けば、どれだけ深い眠りにあってもさすがに起きる。ならば家康自ら、炊事場に赴いたということなのか。 「……服を着ろ」 盆を畳に置いて布団の上に膝を進めてきた家康を睨みつけて三成はゆっくりと身体を起こした。互いに上半身を晒して布団は一組、そんな寝室の光景を目撃されなかっただけマシなのかもしれないが、家康はもう少し羞恥という感覚を備えるべきだ。 家康の上半身には戦場では目に掛からぬような傷跡がそこかしこについている。昨晩にはなかった傷、すなわち行為中に三成が噛んだり引っ掻いたりして付けた傷跡だ。誰がどう見てもそれとわかる情事の痕だが女の手によるものにしては少々手酷い。噛み跡は一粒の歯型が見て取れるほどに、引っ掻き傷はミミズ腫れになって所々皮が破れている。 「まだ風邪を引くような季節じゃないぞ。今年は夏が長い」 わかっているのか、わざと惚けているのか、家康は無骨な手に見合わぬ丁寧な所作で茶瓶から硝子の器へと水を注いでいる。 「ああ、もしかして寒かったのか?」 コトリと盆の上に茶瓶を戻して、キラキラと陽光を弾く器と共に視線が寄越された。服装のことを言っているのだろう。家康と同じく三成の上半身も晒されている。薄紫の浴衣を羽織っただけで帯どころか下着もつけていない。 「一体どんな相手と寝たのか、趣味を疑われる」 三成はつっけんどんに言い返し、差し出された器を引ったくって一息にガブリと全て飲み干した。普段はもちろんこんな格好で寝ることはない。行為の最中に気を失い、そのまま翌朝まで眠ってしまっただけだ。 毎度のことですっかり慣れた。家康は三成が眠っている間に身を清めて着物を羽織らせ、三成が目覚めてからは一日中付き添ってあれこれと世話を焼く。三成は甘んじてそれを受けるしかない。行為に及ばれた翌日は腰が立たないのだ。一人では部屋の戸を開けることすら適わない。他の者に世話を頼もうにも理由を問われたら答えに詰まってしまう。嘘を吐くのは苦手なのだ。 そもそも、この行為はほとんどの場合、家康が三成の部屋に押しかけてきてから始まる。確かによく眠れる薬≠ナはあるが、翌日は必ず体調を崩す羽目になる出来損ないの薬だ。だから家康は「責任を取って世話を焼くのが義務」であり、三成がそのことに対して礼を言う必要はない。負わせた傷に対する謝罪もいらない。 「もう一杯いるか?」 昨晩とかけ離れた穏やかな声で、茶瓶を手にした家康が問う。ふと目を落とした手の甲に一際、色濃い歯形を見つけて三成は眉を顰めた。 覚えがある。これは解されている最中に刻んだ傷だ。三成は何度肌を合わせようとも解すという手順にだけは未だに慣れない。どうにも居心地が悪く、見られていると思うだけで気が触れてしまいそうになる。 昨晩の家康はそんな三成と執拗に目を合わせようとした。「これで気が紛れるだろう」と差し出された手にしこたま噛み付いてやったのに、抗いもせず満足げに笑んでいた記憶がある。 痛くはないのだろうか。不思議に思って、手の甲についた傷をじっと眺めていたら、ふ、と笑う気配がした。 「何を笑っている」 「肩やら背中が痛いんだ」 「それは笑うことなのか?」 「お前がつけた傷なんだと思うと、つい、な」 言って家康は愛おしむように手の甲の傷を撫でた。表情も穏やか、それよりもだらしないと言った方が正しいか。初孫を見た爺やのように口元が緩んでいる。 やはり痛みはないのか。ならば触れても平気だろうか。 布団の上に片手を着き、そろりと右肩の歯形に指を伸ばす。どれだけ力いっぱい噛み付いたのか、この傷に覚えはないが己がつけた傷には違いない。 ポコリと腫れた傷の端に触れるか触れないかという力加減で指を置き、家康の顔を覗きこみながら曲線をなぞる。 少しだけ熱い気がして傷のない皮膚にも触れて比べてみた。やはり熱い。 「痛いか?」 「いや」 あらかじめ用意していたかのように即答が返った。その速度に違和感は持てども虚勢だと断じることもできないような態度だ。家康は身じろぎすらせずに胡坐を掻いて、穏やかな表情で三成に向き合っている。 「背中もなかなか酷いぞ」 「そうか」 「見てみるか?」 両手を広げて家康が招いた。その顔には一片の邪気もない。三成はフラリと引き寄せられるように腕のうちへと収まった。 肩の上に顎を置いて背中を覗く。なるほど、たしかになかなか酷い。幾筋もの傷が交差して網目のようになっている。見慣れぬ者が見れば、拷問に遭ったかと勘違いするかもしれない。 やはり不思議だった。何故、これほどの傷をつけられても家康は己を抱こうとするのか。 腫れ上がった傷を、手の甲のそれと同じように撫でる。痛がる素振りはまったく見えない。思い切って掌でペタリと触れてみた。 「ああ、気持ちがいいな」 嘆息が耳元で聞こえる。苦しさはなく、昨晩聞いたのと同じ、酷く満たされたような息の音であった。 「貴様には痛覚というものがないのか?」 三成は怪訝な面持ちを隠さずに身を起こした。正面から見据えた家康の口元は相変わらず幸せそうな笑みを湛えている。 「痛みはある。だが触れられるのは心地いい」 「何故だ」 「なぜだろうな? ワシにもよくわからん。だが抱いているとよく眠れる。三成もそうだろう?」 たしかにそのとおりではあるが、肯定が返ることを前提に聞いている口調が気に食わない。 「そんなことはない」 唇を尖らせて嘘を吐いた。苦しい嘘だ。熟睡している姿を見られている。 家康は毎回、三成よりも早くに目覚める。眠るのだって三成が意識を飛ばした後だ。 「嘘を吐くな」 案の定、すぐに見抜かれて視線を落とす。視界に飛び込んだ肩の噛み痕が生々しくて、やっぱりどうにも腑に落ちない。 何故、わざわざ抱きに来る? 何故、そんな穏やかな眼差しを向ける? 何故、傷を負わせた相手に優しく接するのか。 いや、それ以前に何故、私はおとなしく家康に抱かれている? クルクルと廻る疑問に目眩がする。支えが欲しくて凭れた先には少し下がった穏やかな熱。 「貴様こそ、ろくに寝ていないだろう」 「だったら確かめてみるか?」 スルリと合わせの間に差し込まれた両手が素肌の背中を撫でた。あっという間に脱がされて腰の辺りに薄紫の布地がわだかまる。 「半刻もせずに寝ているぞ」 クツクツと喉を鳴らす音が届く。抱き寄せられてペタリと張り付いた胸から振動が伝わる。肩越しに見えるのは熱を宿した傷跡の網。 果たして、どちらが薬か。 あるいは、どちらも毒か。 答えの出ない問いを封じて首筋へと頬を寄せる。 背中を這う掌が温度を上げるのは半刻先だろう。 だから今はただ寄り添い抱きしめる。 いつ失われるともわからぬ、穏やかな熱を一時でも長く感じるために。 了 ----備考---- 作業中のBGM:かたはらに by椿屋四重奏 題名は↑の歌詞からの引用だったり。 back/novel/top |