清浄な空気が満ちている。ピーヒョロリと鳶の鳴き声が紅く染まった山間に響いた。刑部は黒いアスファルトに杖をつき、車から降りて大きく深呼吸をした。 いい場所だ。長々と狭い車内に押し込められて揺られ来た甲斐はある。本来ならば片道1時間ほどの道程であるはずなのだが、渋滞に巻き込まれて倍以上の時間が掛かった。これはおそらく官兵衛が生まれ持つ不幸の影響であろう。 普段なら盛大に毒を吐くところだが、今はそんな気力すら残されていない。無事に辿り着けただけでも、神とやらに感謝すべきだ。官兵衛が背負う不幸の星は時に生命の危機をもたらすということを、まざまざと体感させられた。 渋滞の要因となっていたのは目の前で起きた玉突き事故のせいだ。事故に遭った車両が助手席に座っていた刑部の真横を、おもちゃのように回転しながら通り過ぎていった。 思い出すと、すきっ腹に冷水を注いだような感覚が広がる。 「やれ、ヌシとの外出は肝が冷える」 シャツと包帯に包まれたみぞおちを撫でて、車へと向き直り言葉を投げかけた。官兵衛はトランクから着替えなどの入った荷物を取り出している最中だ。 「小生は疲れた。さっさと横になりたい」 官兵衛はげんなりとした口調で吐き出して力強くトランクを閉じた。そうして車に鍵を掛けて、刑部の元へと歩み寄ってくる。隣に並び、晴れた秋空を見上げて降り注ぐ陽光に目を細め、眉間に皺を寄せて「慣れんことばかりだ」と続けた、その横顔を悟られぬように盗み見て、刑部はひっそりと口を歪める。 官兵衛の言う慣れぬこととは車の運転だけではない。目元を覆う前髪を上げて晒された額、開けた視界こそが一番の慣れぬことで、そうさせたのは他ならぬ刑部だ。 この小旅行を引き当てたあの日、官兵衛の家に邪魔した刑部はふと思った。官兵衛の素顔はなかなかに悪くない。きちんと整えれば、まぁまぁ見れる男になるのではないか、と。 思ったとおり、髭を剃り、うっそうと被さる前髪を目元から退けるだけで多少は、あくまで多少ではあるが、良い見栄えと相成った。一張羅のスーツも似合うと言えるだろう。 これならば連れ歩いても不審者と思われることはない。飼い犬の、予想以上の出来栄えに刑部は満足していた。 ――普段もこうなるよう、新たに仕込んでみせようか。 刑部の考えを知ってか知らずか、官兵衛はハァ、と疲れきったため息を吐いて歩を進めた。歩幅は広いが速度は遅い。 どうやら自分に合わせているらしい、と知ったのは、もう随分と昔のことになる。昔、「でかい割には歩みがとろい」と指摘したら「悪いか」と短く不服そうに返答が返った。気を使っているとも、合わせてやっているとも言わず、単に自分の歩みがとろいのだと渋々ながらにも認めたのだ。 刑部は官兵衛のそういうところが気に入っている。何故だか理由を詳しく考えたことはないけれど――いや、おそらくは大きなものを従えられるという俗物的な感覚によるものだろう。それ以上に何があるというのか。 まさか、気を使われて嬉しいとでも? 湧いた疑問の馬鹿馬鹿しさにクツリと喉が鳴った。そんなことがあるはずがない。考える己自身が馬鹿になってしまったような――きっと疲れているせいだろう。 些か足を早めて、すぐ傍に見えている正門へ向かう。 門を通り、白石の敷き詰められた庭の縁石を踏んで館内に足を踏み入れた。なるほど、たしかに高級と称されるだけのことはある。出迎えた女将は包帯だらけの刑部を見ても眉一つ動かさずに、丁寧に頭を下げて出迎えてくれた。 この宿は結構な築年数を持つ、由緒正しき旅館であるらしい。車や諸経費を手配してくれた半兵衛が教えてくれた。旅館というよりも料亭に近いサービスで夜には揚屋から舞妓が呼ばれたりもするそうだ。もちろん食事だって美味い。 他にも色々と教えてもらったが、 刑部が一番楽しみにしているのは温泉だった。火傷で爛れた素肌を人目に晒したくない、と今日に至るまで自宅以外の風呂に入ったことがない。 今回の旅においても自室でシャワーを浴びるだけになりそうだと思っていたのだが、この旅館、各部屋に温泉がついていて人目を憚ることなく湯浴みを楽しめるらしい。 「存分に楽しんでおいで」 そう言って刑部を送り出した半兵衛の、麗しい笑みが脳裏に過ぎる。その前に1時間ほど別室に呼び出されていた官兵衛は何を言われたのか、顔を青ざめさせていた。よもや手篭めの件がバレたのか、とも思ったが、それならばもっと酷い仕置きが待っているだろう。 半兵衛は血の繋がらぬ刑部と三成のことを我が子のように可愛がってくれている。父でも兄でもなく、母のようだと思うのは中性的な白面ゆえか、家内での役割ゆえか。 官兵衛が受付で手続きを済ませている間、刑部はそんなことを考えながら待合室のソファーに腰掛けて、青く茂った庭の竹を見ていた。華奢な門構えに比べて建物は広く大きい。板張りのロビーもそれなりの広さで、大きく取られた窓から整えられた庭がよく見える。 洗練された良い庭だった。竹の奥に紅く染まった山々が見える。官兵衛の部屋から見える庭とは雲泥の差である。 けれど、何かが物足りない。 満たされているけれど静かではなく、ざわざわと心が揺れている。外から聞こえる竹の葉の音のせいだろうか。 「刑部、行くぞ」 手続きを終えたらしい。掛かった声に立ち上がり、身軽そうな官兵衛の元へと杖をついて歩み寄った。荷物は従業員が運んでくれたらしい。官兵衛ではなく、官兵衛の隣に佇んでいた女将が説明してくれた。 「さぁ、参りましょう」 微笑を湛えながら言って先導し始めた女将は、刑部を気遣ってだろう、遅すぎるほどにゆっくりと歩いた。その隣を官兵衛が歩く。杖をつく刑部は2人の背を追う形となる。 官兵衛は何やら女将に色々と尋ねていた。女将は丁寧な口調で答えを返していく。薄紅色の口紅がやけに目についた。目を見張るほどではないが楚々とした美人だ。 鈴の音を思わせる笑い声が板張りの廊下に響く。 胸の内にさざ波が広がって、強く荒れた気がした。 next/back/top/novel |