盲目の恋【鏡】 4



 シトシトと雨は降り続ける。家康は傘を差し、稲葉山の山中をどこへ行くでもなく散策していた。
 部屋の中よりも随分と霧深く、周囲を取り囲む木々の奥どころか道の先さえも見通せない。降り溜まった雨水で足元の土はドロドロにぬかるんでいる。家康は足先に染み入る水気を不快に感じて、眉を顰めてから苦笑した。
 散策には向かない場所だ。ましてや何故こんな天気の日に出歩こうと思ったのか。けれど今の自分には似合いの天気だ。こんな憂鬱な気分で晴天の空の下など歩けない。心の闇が際立って余計に気分が沈んでしまう。
 気づいてしまった、気づかされた。官兵衛は確かに鏡だった。家康が目を背けてきた心の奥をまざまざと映し出した。指摘された事柄は確かに己の中に在る。酷く醜悪で一度でも目にすれば、その存在感を拭い去ることはできない。それでも、だからこそ人の目に触れさせてはならない。芽生えた迷いを悟られるわけにもいかなかった。揺らぐ心を人目に晒したくなかった。
 泰平の世を作る、その為に払わねばならぬ対価を他人に押し付けようとした薄汚い弱さ。その根底に根づくのは辛くて哀しい三成への想いだ。
 ピチャリと足元で泥水が撥ねる。ふと見れば足袋も袴も泥に汚れていた。戻ればきっと家臣たちに渋い顔をされるだろう。席を外すことさえも告げて来なかった。告げれば誰かがついてくる。一人になりたかったのだ。
 家康は道行くままに歩き、やがて山頂に辿り着いた。戦の際にはここが本陣となるのだろう、門をくぐった先に開けた場所に九枚笹の紋の入った陣幕が張られている。
 そのうちの一枚をじっと眺める後ろ姿があった。
「三成」
 強張った声で名を呼び、思わず門の柱に身を潜めて気配を殺した。柱の影に隠しきれない傘を折り畳んで、柱に背を押し当て、まるで忍びのように様子を伺う自分を情けないと思ったが、まさかこんなところで顔を合わせると思っていなかったのだ。せめて跳ね上がった心臓が落ち着くまでは、と言い訳のように自分に言い聞かせて本陣の中央に佇む三成の姿を、首を捻って覗き見る。
 三成は傘も差さずに立っていた。浅紫色の肩衣が濡れて膨らみを失くし、ただでさえ細い身体をより一層、細く浮き立たせている。白い髪もペタリと頭皮に張り付いていて、こんなに小さな頭をしていただろうか、と戸惑った。
 ――なんと頼りない。まるで幼い子供のようだ。
 ツキリと痛みが走った。知らず知らずの内に「守ってやらねば」と考えていた自身が怖い。守ろうと思うなら泰平の世を諦めねばならぬ。日ノ本の民の為、数多の将を説き伏せて己が掲げた夢だ。今更、一人の為に生きることなど出来ようはずがない。
 目を擦ることで払いのけた。改めて見ればいつもと何ら変わらぬ姿だ。裃姿ではあるが左手に刀を持たせれば、今にも戦場に駆け出していきそうな。
 そう言い聞かせて折り畳んでいた傘を開いた。クルリと踵を返して三成の背中に歩み寄る。気配はもう隠していない。それどころか、わざと大きく足音を鳴らして進んだ。
 サラサラと流れ続ける小雨の雨音にパシャリ、パシャリと歪な足音が混じる。町人であっても気づくだろう。武芸を嗜む、しかも一流の腕を持つ三成が背後から近付く気配に気づかぬはずがない。そう思い、何も言わずに傘を差し出して、そのまま立ち去ろうと思っていたのだが。
 三成は被さった傘をゆっくりと仰ぎ見た。そしてたった今、気づいたかのように家康へと視線を移す。
「いえ、やす……?」
 問いかけるように呼んだのは視界がぼやけているせいだろうか。雨露と溶け合って見分けることは出来かねて、無意識のうちに白い頬に指が伸びる。内からか外からか、「触れるな」と制止する声が聞こえた気がする。けれど一足遅かった。
 掌に感じる冷たい温度と、手の甲に伝う温かな雫。
「独りで泣くなよ」
 無理やり口元を歪ませて吐き出した声音は苦々しい。きっと上手く笑えていないだろう。けれど今はこれでいい。湧き立つ感情の根源がどれほど醜くても、涙に煙る三成の目ならば誤魔化せる。
 切れ長の両眼がグシャリと崩れた。次々と伝い落ちてくる雫に寄せられる信頼を感じ取り、己が姿を思い知らされたばかりの心が軋みを上げる。縋るように、逃れるように頬に触れていた手でこめかみを梳き、水気を孕んだ小さな頭を胸に引き寄せて、それだけでは足らずに細い身体を両腕で抱きしめた。
 押し殺した嗚咽が胸元で響く。震える肩が罪の意識を呼び起こして心を甘く苛んだ。この痛みこそが恋慕だというのなら。
 そんなものは知りたくなかった。
「ああ……哀しいな」
 ポツリと吐き出した言葉は強まり出した雨音に掻き消された。もっと降り注いで、身の内に宿った痛みも洗い流されてしまえばいい――そう思いながら、光の見えぬ曇天を目を閉じて見上げた。



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