豊臣軍最高の軍師と謳われた竹中半兵衛が逝ったのは、雨の降りしきる初夏の日の事であった。 黒い喪服を着た面々が稲葉山にある半兵衛の屋敷を出入りする。天下を治める豊臣の軍師である半兵衛は立場に見合うだけの人脈を持っていたようだ。山の中腹にある屋敷に足を踏み入れるまで一刻ほど、屋敷の中に入ってからも亡き人の顔を拝むまで、たっぷり半刻は待たされた。待つことは得手ではあるが、かといって好ましいとは言い難い。すっかり香の匂いが染み付いてしまった礼装の首元を緩めて、家康はヒッソリと嘆息する。 雨は好きじゃない。人の葬式はもっと好きじゃない。線香の匂いも嫌だ。裃の礼装は肩が凝るし、己に不似合いだとも思う。忌避するものばかり揃えて出されては、常日頃、笑みを絶やさぬ家康でも憂鬱になる。面倒だ、嫌だ、帰りたいと態度で示しそうになってしまう。腹が痛いと言って早々に退出してしまおうか――そんな子供じみた欲求が芽生えることを止められない。 そもそもこんな心意気で参列していることがまず、故人への不義であると思う。いや、それどころか家康が参列していること自体、半兵衛は喜ぶまい。生前の半兵衛と家康は表立って対立したことはないが、決して友好とは呼べない間柄であった。 この数年間で家康が率いる三河勢が急激に力を蓄えた為だ。一纏めにして、謀反を起こすのではないかと危惧されるほどに。 実際に家康にはその心持があった。豊臣傘下に身を置きつつ、豊臣幕僚を含めた各国諸将を絆して密かに根を巡らせてきたのだ。今や口さがない者たちが「三河殿が起てば豊臣軍とも対等にやり合えましょうぞ」などと軽口を飛ばすまでになっている。豊臣の治世を誰よりも強く願う半兵衛が、家康に睨みを利かせるのは当然のことだった。 そして家康もまた半兵衛を疎んじていた。かの軍師殿は鋭く、目があるうちに動き出すことはできなかった。しかし半兵衛が他界した今、邪魔立てするものはないに等しい。ありとあらゆる面で秀吉の天下掌握を支えてきた半兵衛の死は秀吉を討つ絶好の機会となるだろう。家康に迷いはなかった。 ゆえに、この葬儀に足を運ばねばならなかった。 半兵衛の死に顔を拝むためではない。死に顔を拝みに来た生者たちの動向を探るために、だ。味方に転びそうな者、敵に回りそうな者、中立を保とうとする者。各々がどんな思惑を持って半兵衛の死を受け入れるか、寸分違わず検分して来たるべき秀吉との闘いの前に敵味方を見定めておかねばならない。 ――はたして、この中に信を置ける者はいるだろうか? 焼香を終えた家康は半兵衛の屋敷の一室にて、集まってきた顔馴染の武将たちと盃を交わしていた。皆、豊臣に対して何らかの反目を持っているということが見て取れる。人の葬式だというのにどこか晴れ晴れとした様子で口を弾ませる者ばかりだ。次代を担う者、豊臣を倒す力を持つ者として期待を寄せられているのだろうが、やはりどうにも気分はよくない。 これは言うなれば裏切り者の集まりなのだ。どれだけ声高に「泰平の世を築く」と叫んでも豊臣の手に在る天下を簒奪することに変わりはない。己はそんな裏切り者たちの首魁となる。 わかっているからこそ堂々と振る舞わねばならぬ。血を流さぬように、と願うなら争いの前に味方を増やすべきだ。その為にはどうすればいいか、幼い頃から乱世の渦中に身を置いてきた家康にはわかっている。利と義、相反する二つを上手く取り扱わねばならない。金や石高だけで人の心は買えぬのだ。人はいつの時代も外聞を気にするものだから。 ゆえに家康は笑う。絆というキレイな言葉で飾り立てて、欲に塗れた人脈を構築する。今も周りの人間に合わせて笑みを絶やさず、されども行き過ぎぬよう沈痛な面持ちを交えながら、皆が担ぐにふさわしい心優しき人情家の三河殿≠演じている。 己の腕一つで守れるものなど日ノ本のほんの一欠けに過ぎない。天下を臨むなら大きな器を持たねばならぬ。焦りは禁物、泰平の世は耐えて得るもの――そう言い聞かせて飲み込んだ言葉の数は千を優に超える。 今宵もまた忍耐の時であった。人の葬儀でヘラリヘラリと笑う者たち、あくせくと動向を探る自身、内も外も腐りきって漂う酒気に吐き気が湧く。意のままに吐き出せば、聞くに堪えない不平不満の雑言が零れ出るだろう。己の動向も思惑も棚に上げて「主を裏切ってはならぬ、一度仕えたなら死ぬまで忠義を尽くせ」と諭してしまう。家康は泰平の世を望むが、豊臣を滅ぼしたいわけではないのだ。 手にした盃を一息に煽り、上り来る感情ごと腹の中に仕舞い直せば、濃紺の裃を纏った見覚えのある武将が徳利を片手に、そそくさと膝を進めてきた。 「さぁさ、三河殿。拙者からも一献」 「ああ、ありがとう」 家康は親しげな笑みを浮かべて、空いたばかりの盃を差し出した。なみなみと注がれる透明な酒を眺めながら、この人物はどこの武将であったか、酒気に当てられて少しばかり、巡りの悪い頭を無理に回して記憶を探っていたら、 「お止め下され!」 悲鳴のような制止の声に続いて、間髪入れずにガシャン、と何かが割れたような音が響いてきた。 一瞬の静寂の後、室内がザワリと揺れる。皆、何事かと視線を泳がせている。家康はすぐさま立ち上がって、廊下へと顔を覗かせた。物音が聞こえたのは室外からだ。 シトシトと降り続く小雨の音が薄暗い廊下に満ちている。行灯の光がほんのりと霞んでいるのは霧のせいだ。稲葉山は霧深い。晴天の日であっても昼夜問わずに明かりが焚かれている。今日は雨が降っているせいで一段と霧が濃いようだ。 目を凝らせば廊下の奥に黒い塊が見えた。騒ぎに気づいた者たちが集まっているのだろう、多数のざわめきとドタドタと床板を踏み鳴らす音も聞こえてきた。 「離せ、どけ! 誰か刀を寄越せ!」 と、聞き覚えのある鋭い怒声が上がった。ざわめきがピタリと止まる。 家康は眉を顰めて、静まり返った廊下を進んだ。 ――あれは三成の声だ。 まさかとは思うが、毎日のように聞いているので聞き間違えようがない。一体、何があったというのか。三成は気性の荒い人物だが、人の葬儀でみだりに騒ぎを起こすような無法者ではない。ましてや半兵衛を並々ならぬほどに敬愛していた。 「どうしたんだ?」 家康は廊下に出来た人垣に向けて声を掛けた。 「み、三河殿……!」 一斉に振り返った男たちの顔は皆、一様に強張っていた。人垣の中央には、見覚えのない壮年の武士が仰向けに倒れて目を回している。先の制止の声はこの男のものだろうか? 倒れた男が「ぐぅ……」と唸り声を上げた。命に関わる大事ではなさそうだ。ホッと胸を撫で下ろし、続いて部屋の中を覗き込んだ。廊下にできた人垣の中に三成の姿はない。ならば彼らが覗き込んでいた室内にいると見るのが妥当だ。 部屋へと身体を傾けた家康の前で人垣が割れる。止めてくれという暗黙の要望を汲み取った家康は「三成のことだから言葉では止まるまい。おそらく力ずくになるだろう」と思いながら、青畳の敷かれた室内へと足を踏み入れたのだが―― 「貴様に何がわかる!?」 「お前さんにわかるとも思えん!」 三成と言い争う声の主が予想しえぬ人物であったので、どう声を掛けていいかわからずに立ち尽くした。広がる光景も思い描いていたものと違う。三成は熊のような体躯の屈強な男に首根っこを掴まれて、畳へと頬を押し付けられていた。 何故、この2人が争っているのか。家康の記憶が正しければ、どちらも豊臣軍に属す高名な武将であるはずだが。 「官兵衛。何してるんだ」 家康は腑に落ちない表情を浮かべて大きな背中に声を掛けた。 名を呼ばれた男――黒田官兵衛は「あぁ!?」と乱暴な声音を上げながら、首だけを捻って振り返った。家康の顔を見て、少し頭が冷えたのか、気まずそうに口をもごつかせてから、 「久しぶりだな、権現。仲裁にでも呼ばれたか?」 と、挨拶と共に比較的冷静な見解を寄越してきた。だが争いをやめるつもりは毛頭ないらしい。三成を取り押さえる手は離さぬままだ。当然といえば当然だろう。争う2人の傍に割れた花瓶が転がっている。これで三成に殴られたのだろうか?官兵衛は鼻からダラダラと血を流していた。薄茶色の小袖の襟元が真っ赤に染まっている。 「家康! コイツの頭を張り飛ばせ!!」 官兵衛の身体ごしに鋭い怒声が飛んでくる。覗き込んだらブワリと殺気が押し寄せた。畳の上に目を血走らせた三成の横顔がある。ただでさえ体格も力も雲泥の差があるというのに、背中に乗り上げられて両手を拘束されて頭を押さえつけられていては、まったく身動きが取れないのだろう。 それでも抵抗を止めないところが三成らしいというか、なんというか。どうにかして自力で拘束から逃れようとしているらしい。肘まで捲れた袖から覗く白い腕が筋張っている。 「三成、ひとまず落ち着いたらどうだ?」 家康は三成の頭の上に移動して膝を折り、顔を覗き込みながら促した。捕らえられてから今まで、一呼吸ほども休むことなく全力で抵抗し続けているのだろう、不健康な白面が真っ赤に染まり、耳までもがほんのりと赤い。 「こんな状態で落ち着けると思っているのか!!」 「それはそうだ。官兵衛、どいてやれ」 武士たるもの、こんな無様な姿を長々と衆目に晒すのは恥だろう。三成の意見はもっともだ、と家康は視線を上げて今度は官兵衛に促した。三成の頭を両手で挟み、「ほら、代わりにワシが捕らえておくから」と付け足すことも忘れない。 官兵衛は口をへの字に曲げて、家康の視線を受けていた。納得できないのか、もっと手痛い目に遭わせなければ気が済まないのか――三成の報復を恐れているわけではないだろう。今の三成は刀を持っていないし、葬儀の席に刀を持ち込む人間もいないので周りから奪い取ることもできない。 「着物も汚れてしまうぞ。……と、もう手遅れかもしれないが」 場を和ませようと冗談めかせて言った。口元にはもはや癖のように笑みを貼り付けてある。 しばらくの間を置いて、官兵衛がハァ、とため息を吐いた。 「小生は鏡になりたいね」 「どういう意味だ?」 「言ったままの意味だ」 その意味を説明して欲しい、と言及する間もなく官兵衛は腰を上げた。待っていた、とばかりに飛び起きた三成がスルリと両手の間から抜け出して、官兵衛に殴りかかろうとする。 「三成、待て!」 「邪魔をするな!!」 慌てて両脇に腕を突き入れて羽交い絞めにした。この細い身体のどこから力が湧いてくるのか、並みの武将では抑えられそうにない推進力だ。先ほど廊下で伸びていた男は、このようにして吹き飛ばされたに違いない。 がむしゃらに振られる両腕で殴り飛ばされないよう注意しながら、宥める言葉を探し出そうと頭を回転させる。 いつもはどうしていたか。取り押さえるのは自分の役目だ。けれど毎度、三成と居合わせる度に取り押さえているわけじゃない。三成が暴力に訴える前に怒りを覚まさせる人物がいる。 「刑部はどうした?」 疑問を投げかけてグルリと部屋の中を見回した。言葉で三成を制止できるのは主君である秀吉と師と仰いでいた半兵衛、そして半身のごとく三成に寄り添う大谷吉継だけだ。 部屋の中に刑部の姿はない。そして奇妙なことに刑部の名が出た途端、三成の抵抗がピタリと止んだ。 「どうしたんだ? 三成」 不自然な動きの止まり方が心配になって、家康は細い身体を羽交い絞めにしたまま、項垂れた三成の顔を覗き込もうとした。しかし、わざとらしいほどの音量で聞こえてきた、ズビリという音に遮られて目線がそちらに向く。 音の元は官兵衛であった。片手で鼻の根元を摘み、もう片方の手で鼻の下を掌で乱暴に拭って、少しばかり上を向いている。出血はひどいが、鼻梁が折れるほどではなかったらしい。 官兵衛は廊下から部屋を覗いている野次馬たちに対して、指先を振り「懐紙を寄越せ」と示した。野次馬の一人がおずおずと差し出した懐紙を毟るように受け取って、勢いよく鼻をかんだ後、「フゥ……」と重々しいため息を吐き、 「刑部は体調が悪い」 苦々しい声で告げた。その言葉に三成が面を上げて、少しばかり反応を示す。けれど口を開くつもりはないのか、奥歯を噛みしめる音がして、再び面を下げてしまった。 「そんなに悪いのか?」 先ほどまでとは別人のように意気消沈している三成の様子を伺いつつ、家康は眉を顰めて問うた。 刑部は業病と呼ばれる病に罹っている。治る見込みはなく、家康が出会った頃には既に杖なしでは歩けないほどに進行していた。近頃は杖をついても、自室の端から端までを歩くだけで精一杯なのだと聞く。すっかり自室に篭ってしまって、家康が最後に姿を見たのは梅雨に入る以前、一月も前のことであった。 「言うほど悪くない。が、この場には出れそうにない」 しかめっ面で血に汚れた首元を摘み、官兵衛が答えた。いや、家康に答えたというより三成に言い聞かせた、と言うべきか。 「刑部自身がそう言っていた。……文句はないだろうな?」 含めるような物言いで続けて、鷹揚に見下ろす官兵衛の目線は長い前髪に隠されて定かでない。だが、どうやら言い聞かせるような最後の問いかけは三成に向けられているらしかった。 「……ああ。そうだ」 三成は一呼吸の間を置いて短く答えた。単なる相槌にしては重みがある。家康は首を捻り、こちらに見向きもしない三成の横顔を心配げな表情で見つめて、改めて理由を問うた。 「何があったんだ?」 「私的な事柄だ。貴様には関係ない」 三成の視線が向けられることはなかった。それに随分と棘のある言い方だ。けれど苛立っているのとは違う。隠し事をしているわけでもなさそうだ。純粋に「家康は部外者だから告げずともよい」と考えているように見える。 「もういいだろう。離せ」 冷めた声音で言い捨てる三成に暴れる素振りは見えない。家康は釈然としないながらも、おとなしく両腕の拘束を解いた。三成は折れた肩衣を直して襟元を正し、一度も振り返ることなくスタスタと部屋を出て行ってしまう。 妙である。廊下に群がっていた野次馬に対しても静かな声で「道を開けろ」と告げたのみで叱責は飛ばなかった。いつもの三成ならば「どけ!」という恫喝どころか、「貴様ら何を見ている!!」と殴りかかっていてもおかしくない。 そんな三成の苛烈な性格は野次馬の将たちにも知れ渡っている。彼らも妙だと思ったのだろう、ポカンと大口を開けて三成の背を見送っていた。 next/top/novel |