ツバサ



 変わることはないと思っていた。10年間、人生の半分以上ずっと隣にいた。肩を並べてきた。垣根を越えてチャイムを鳴らせばドアの向こうから返事が返る。家康の部屋と元親の部屋は屋根伝いに行き来できるほどの距離だ。夜になれば閉じた窓の向こうに、カーテンの奥に明かりが点っているのが当然だった。
 だから家康は机の位置を変えた。
 今はもう、明かりの点かない真っ暗な窓を見るのが辛い。
 癖になっている、と知ったのは元親が海外に渡って半年ほど経った頃だっただろうか。その度に胸が軋み、けれどどこか期待を拭いきれなかった。
 ふと帰ってくるのではないか、と。
 思うたびに自ら、その期待を打ち消す。
 望んではいけないのだ。帰ってくる時は元親が夢を諦めた時だから。
 元親は家康の1つ年上で、1年前に高校を卒業した。そして両親の反対を押し切って海外の建築事務所に弟子入りした。何百年も建築の続いている大きな教会を建てる、その仕事に携わる為に向こうで生活をする。20年は下っ端で休む暇もない、だから日本には帰れなくなる。
「けど、どう足掻いたって日本じゃできねぇ仕事だから仕方ねぇよな」
 その一言で海外への移住を決めた。行動力に富む元親らしい決断だった。そして決して挫折しないことも知っている。だから――笑顔で見送った。
 最後の別れの時にも互いに交わしたのは笑顔だった。「寝坊して飛行機に乗り遅れないように」と一晩中、元親の部屋で語り明かして。
 ひっそりと、物音を立てないように2つのトランクを運んだ。
 元親が開けた玄関のドアから差し込んだ朝日に、白い息が輝いていたことをよく覚えている。その背中が一度も振り返らなかったことも。  
 ガラガラとトランクを押して、近くの国道まで見送った。
 2人とも何も話さないままで歩み――足を止めてからタクシーを捕まえるまでの間、少しだけ小さな声で会話を交わした。
「怖くないのか?」
 日中よりも随分と通行量の少ない国道を見つめたまま家康は問いかけた。それでも色濃く香る排ガスが鼻腔に入り込んでくる。きっと元親が旅立つ場所はここと違う空気を持っているだろう――そう思うと唐突に肌寒さが増した気がしたが、その時ちょうど目の前を大型トラックが駆け抜けていったことで誤魔化されてしまった。
「どうだろうな」
 トラックが走り去ってから掠れた声で相槌が返った。相槌だけで答えはなかなか返らず、家康はトランク2つを挟んで右側に在る元親の顔を見上げた。
 元親も家康と同じく車道を見つめていた。巻き起こった寒風に両肩を竦めて、遠く走り去っていく大型トラックのテールランプを追っていた。左目は眼帯で口元はマフラーで覆い隠されていて表情の見えない横顔だった。だから家康はその時、元親がどんな顔をしていたのかわからない。
「でも行かずに後悔する方が怖ぇし…」
 一つ、ズビリと鼻を鳴らして、白い髪がフワリと泳ぐ。
「建前でも怖くねぇ、って言うのが男ってもんだろ」
 そう言って家康に向けられたのは笑顔だった。少し苦し紛れの、けれど朝焼けに目が眩んだだけとも受け取れる、力強い笑みだった。


 あれから1年。今は家康も夢を追う立場にある。
 家康の夢は薬剤師になることだ。この1年、受験勉強に明け暮れたおかげで無事に目当ての大学に合格した。大学院への道も目しての受験だった。将来、目指すのは研究職、元親との接点はないに等しい。
 そうして、家康も卒業と同時にこの部屋を出ることになる。
「本当に、何もなくなってしまうのだな…」
 荷造りを終えて、閑散とした部屋の中に零した言葉が響いた。
 カーテンを取り払った窓の向こうには見慣れた懐かしい景色がある。
「元親…」
 喉元に競り上がってくる何かをぐっと堪えて窓を開けた。柔らかい陽光に照らされて、思わず目を細めた家康の頬をあの日と同じ、排ガスを含んだ冷たい風が撫でていく。
 じくりと胸が痛み、視界が歪んで苦しいけれど。
「忘れない」
 この空気も、無人の窓も、別れ際の笑みも。
 何年経とうとも忘れない。
 いつか互いに夢を手にして会える日が来ると信じている。
「だから、それまではこの思い出を胸に前へ進もう」
 人知れぬ誓いを己に立てて、窓を閉める手に迷いはない。
 思い出の詰まった情景に背を向けた家康は一度も振り返らずに部屋を出る。

 後ろ手に閉められたドアが無人の部屋にほんの僅かな微風を起こし――どこからか舞い込んだ桜の一片を晴れ渡った空を映す窓ガラスへ向けて、フワリと舞い上げていった。
   
 
  了.


----備考----
BGM;ツバサ byアンダーグラフ
ミドリさん、原稿おつかれさまです!な作文でした。 

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