陽春 2


 動きの悪くなった指を結び開いて、黒田は重い腰を上げた。指だけではない、顔を含めて全身に包帯が巻かれている。4年前、関ヶ原で戦った頃の力は今に残されていない。手枷をつけられていた時よりも身体が重い。屈強だった身体も痩せ衰えて、身長だけが高く、遠く九州の地で見たサトウキビのようだ。
「やれやれ……」
 杖をつき、苦労して縁側に腰掛けた黒田は満開に咲いた庭の桜を見上げて、病人に似つかわしくない穏やかな笑みを浮かべた。持ち前の不幸もここまで来るといっそ清清しい。
 天下分け目の合戦は東軍が勝利した。黒田は手枷の鍵を手に入れて自由を得た。
「全て、我が仕組んだこと。何卒、寛大な処置を賜りますよう――」
 本多忠勝の豪槍に貫かれて死んだ大谷吉継の遺言を、かの東の総大将は快諾した。大谷が身体を張って庇ったのだという西の総大将も、九州でひっそりと生きている。天下は治まり、日ノ本には泰平の世が訪れた。もはや揺らぐことはないだろう。
 だが黒田の身には更なる不幸が訪れた。関ヶ原の戦いを終えた数日後、身を焼く病が再発したのだ。
 以来、誰も彼もが黒田を忌避する。仲違いすることの多かった大谷の怨霊に呪われたのだと。
 けれど、それは間違いだ。この病は元々、黒田に降った業である。代わりを担っていた者が死んだのだから、戻ってくるのは当然の理といえよう。そう思えば、まぁまぁ納得できぬことではない。
 共に穴倉へ押し込められていた部下も離れ、世話を焼いてくれる者は病が発症してから拾った、あの小姓しかいなくなってしまったけれど――それでも穏やかな笑みを浮かべられるのには理由がある。
「喜之助、小生の膳も下げてくれ」
 真横でキシリ、と廊下が軋んだ。黒田は桜から目を離し、隣を見上げて言った。
 何の因果か、小姓の名は喜之助という。喜之助は紀之介≠ニよく似ていた。口達者なところも、ひねくれた性格も、声も似ていると思う。患う前の紀之介は、たしか、おそらく、ああいう声をしていた。
 だから拾った。何故なのか、深く考えたことはないが――よい結果を生んだのだから、わざわざ考える必要もなかろう。喜之助は業病を患う黒田に怯えもせず、よく仕えてくれている。
「……暗どのは、ほんに暗でございますな」
 喜之助はふ、とため息を吐き、隣へ腰を下ろした。ほとんど手を付けていない膳の様子を見て、またもや機嫌を損ねたのだろうか? 「食えんものは食えん」と言い訳をしてみるが返事は返らない。
 代わりにグイ、と腕を引かれて、突然のことに身体が大きく傾いた。
「うおっ!? なんじゃ、いきなり何をする!?」
 痛みが走る、と思いきや、倒れこんだ先は温かな身体の上であった。
「ああ、軽うなりましたな」
 朝餉を残したことに対する厭味だろう、喜之助は嘲るように言って黒田の頭を膝の上に招いた。廊下に仰向けに寝転がる形になった黒田は、喜之助の強引な振る舞いに少々戸惑いながら、爪先まで包帯に覆われた指をハタハタと宙に泳がせた。
 すぐにフワリと掴まれて、今度は楽しげな笑い声が降る。
「怒っているのか?」
「些か」
「だったら何故笑う?」
「暗どのの姿が滑稽ゆえ」
 澱みなく答えが返り、掴まれていた指が腹の上へと静かに降ろされた。そうして額に掌が乗る。なおも降り注ぐ笑い声を浴びながら、目元に下がってきた掌でやんわりと瞼を閉じられて、黒田は思わず眉を顰めた。
「何故、目を隠す?」
「眩しいかと思うたので」
「……これじゃ桜が見えんだろう」
「それはそれは申し訳ありませぬ。気が利かぬ若輩者ゆえ、堪忍召されよ」
 これもまた澱みない。言うなり掌がフワリ、と除けられた。
 ――これは、もしや。いや、きっと、間違いない。
 黒田は人知れず確信を得て、声の降る真上をしっかと見た。春は確かに近付いているのだろう、仰向けに転がった全身に陽光が降り注いで、久しく訪れぬ眠気を誘うほどに心地よい。
 そして、なによりも――この懐かしい声が。
「やれ、暗どの。桜を見ると、」
 耐えかねたように発された声に両手を伸べて、頬を挟み込むことに成功した顔を引き寄せた。ぎょっとしたような気配が伝わってきて、顔を見れぬことだけが悔やまれる。
 見えぬのだ。病が身に戻り、黒田の両眼は漆黒の闇に閉ざされた。
 だから、どうか彼が地獄の閻魔に舌を抜かれぬようにとばかり願っていた。
 もう一度、再会するために。探し当てるために。不幸を願う彼に、そんな生き方をさせてしまった己の姿を見せて、安らかに、どうか心病むことなく眠れるよう――

 ああ、そうだ。だから、忘れぬようにと喜之助を拾ったのだったか。
 業は己に返ったのだから、昔の姿に戻っていると。
 声もきっと、あの頃に戻るだろうと。

 そうして、見つけることができたなら。
 今度こそは見失わぬように。
 手放さぬように。

 つらつらと止め処なく、想いが流れる。  
 だがしかし、用意していた言葉は一つも出ずに、
「紀之介=v
 ただ名を呼んで、しかと抱きしめた。



  終.


雰囲気台無しなおまけ >>

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