ようやく桜が咲いたと言う。 なかなか春が訪れぬ年であった。部屋の中にあっても、ピタリと閉じた戸の隙間から寒風が入り込む。眠ってしまえば寒さも感じまいと目を瞑るが、寒さゆえに寝付けぬような日々が続いていた。 「暗どの、たまには外に出てみてはどうか?」 朝餉を並べた小姓が桜の開花を告げた後、至極面倒そうに茶を煎れながら付け足した。小姓と思えぬ口調と態度だが、いつものことである。黒田は咎めることなく味噌汁を啜って、「そうだなぁ」と気のない返事を返した。 小姓はしばし黙り、煎れ終えた茶を片手に持って黒田の横に座していた。重々しい沈黙である。言いたいことが山ほど積もっているのだろうが、黒田はあえて無視をした。ここで「なんだ?」と問いかえせば、長くしつこく文句が続き、いつしかチクチクと棘のような厭味へと変わる。彼は口が達者なのだ。 いくら待っても返答がないことに焦れたらしい。彼は黒田の膳へと茶碗を置いて、対面に位置する自身の膳へと歩み去った。黙々と箸を進めて、あっという間に用意した朝餉を平らげ、座布団の上に正座したまま、動く気配がない。これはどうやら本格的に機嫌を損ねてしまったらしい。 黒田はハァ、と重々しいため息を吐いて椀を置いた。 「……庭先になら出てやらなくもないな」 渋々と言った。あからさまに乗り気でない口調である。しかし小姓はそそくさと立ち上がり、「膳を片付けて来まする」と足早に部屋から立ち去った。持っていくのは自身の膳だけである。小生の膳も下げてくれ、と願い出ようとしたが、呼び止める間もなく廊下の足音が遠のいた。 おそらく計算づくなのだろう。ムリヤリにでも食えという暗黙の命である。けれども、どれだけ頑張ったところで食えぬものは食えぬ。置いた味噌汁の椀に手を伸ばそうとしてはみたが、腹の具合を鑑みるに到底飲み下せるとは思えず、椀に触れることなく諦めた。 ――と、冷たい風が袖の内に舞い込んだ。 「寒いな」 呟き、ブルリと身を震わせる。どうやら小姓が障子を開けっ放しにしていったらしい。閉じたいが動くのは億劫だった。 何気なく、障子に向けて手を翳す。 もちろん何事も起こらなかった。試しに閉じろと念じてみたが、カタリとも障子は動かない。 「やはり、お前さんだけの授かりもんじゃないか」 黒田は口元を歪めて小さく零した。――隙間なく指を包む包帯を撫でながら。 その昔、豊臣に属した直後のことだった。突如、謀反を起こした城主が黒田の同輩であった。二心なきことを示すために説得に行けと命じられて従ったのが運のツキ、説得どころか、城主と顔を合わすことすらままならずに捕らえられて、地中奥深くの土牢へ押し込められた。 二心を疑われている身の上、助けは来なかった。加えて捕われたのは篭城中の城である。ろくに食べ物を与えられず、不衛生な場所に押し込まれて過ごすうちに、病が黒田の身体を蝕み始めた。身を腐らせ、骨を溶かしゆく――俗に言う業病≠ナある。 黒田の患ったそれは酷く進行が早かった。昼夜を問わず、業火に焼かれているような痛みが襲い来る。日に日にやつれて、一月の内に身を起こすことすらままならぬ有様となり、死の淵に瀕した。 朦朧とする意識の中で「もはやこれまでか」と覚悟を決めた。 しかし「死なせてやらぬ」と抗う者が同じ牢の中にいた。 当然といえば当然だ。彼は黒田の従者という名目で付き添ってきた、豊臣からの監視役である。殺されずに済んだのは一重に黒田の嘆願あってのこと、黒田が死ねば殺される運命にあった。 「ヌシに死なれては困る。我にはやらねばならぬことがあるゆえ」 何度も幾度も、言い聞かせ。 「飯を食いやれ。弱音はいかぬ。喉を割って流し込むぞ」 懸命に一心に、世話を焼き。 「生き永らえよ。ヌシの病ごとき我が食ろうてやる」 まるで呪いでも掛けるように。 「その病を、我に移しやれ」 神がいたのか、はたまた禍つ者が聞いたのか。 彼の言葉は実を結び、黒田の病を欠片も残さず食い取った。 ――彼の名は紀之介≠ニいった。 next/top/novel |