夫婦喧嘩は犬も食わぬ 2


 この土産は苦肉の策だ。持っていくと決めてからも、ひたすら悩んだ。そもそも人に見せる物ではないのだ。
 こんなもので家康は喜ぶのか。
 持っていけ、と勧めた大谷に疑念が募る。
 大谷は信を置ける友人だが、近江で暮らすようになってから急激に三成をからかうことが増えた。しかも何故だか家康に関することばかり提言してくる。
「あれは一体、なんなのだろうな」
 幾度となくワケを訊ねたが「ヌシらを見ていると、一纏めに荒縄で縛りたくなるのよ」などと、至極面倒そうな態度で適当に誤魔化されるばかりで明瞭な答えは得られない。
 一纏めに、という言から察すると、近江と江戸という遠距離恋愛を哀れんでいるのだろうか?
 だとすれば、勘違いもいいところだ。
 三成は今の家康との関係に概ね満足している。家康も「三成が自由に生きてくれるのが一番だ」と言っていた。当人同士が納得しているのだから、傍からどうこう言われる筋合いはないように思うのだが――周りの者は皆、口うるさい。
 そういえば、この間、ようやく年始の挨拶に訪れた長曾我部にも同じようなことを言われた。もっと家康に構ってやれだとか、愛情がまったく見えないだとか、血も涙もない冷血漢のように評された覚えがある。
 具体例を挙げられて、ここをこうするべきだの、あれはいただけないだの、大雑把な長曾我部にしては珍しく、数日間に渡って散々言い含められた。
 それゆえに今回、江戸に出向く気になったのだが――改めて考えてみれば、些か妙な話である。
 何故、三成の、家康への接し方を長曾我部が知っている?
 疑問を抱くと同時に、廊下からドタドタと騒がしい足音が聞こえてきた。屋内だというのに全速力で走っているらしい。
 姿の前に声が先行する。
「三成! わざわざ来てくれたのか!」
「騒がしい。醜態を晒すな」
 間を置かずして障子から覗いた喜色満面の笑みに、三成は辛辣な目を向けた。どれだけ全力で駆けてきたのか、家康は肩で息をするほどに呼吸を乱しており、まだまだ肌寒い季節であるというのに額に玉の汗が浮いている。
 きっと城内だけでなく、城下の町に下りてからも一心不乱にひた走って来たに違いない。その光景を思い浮かべると三成の眉間には更に深い皺が刻まれる。
 家康の服装はどこからどう見ても、征夷大将軍≠セ。烏帽子こそ被っていないが、将軍職の礼服である直衣を着ている。こんな格好をしている武将は他にいない。
 ゆえに、ただの大名が城下を走っているのではない。日本の頂点に立つ天下人が血相を変えて走っているのだ。その姿を見た民衆はどう思うか。何事かと不安に駆られるだろう。
 三成は自身が啜っていた温い茶を差し出しつつ、
「いい加減に自分が天下人なのだという自覚を持て。そんな、いかにも将軍職に就いているという格好で、よくも軽々しく城下に下りれたものだな。見せびらかしたいのか?」
 仏頂面で家康を睨みつけた。
「手厳しいなぁ」
 三成の機嫌の悪さが伝わっていないのか、家康は苦笑を浮かべつつも、臆することなく部屋の中に入ってきた。
 受け取った茶を緩みきった顔でしばし見つめて、息を整えてから一息に飲み干し――真っ直ぐに視線を向けてくる。
「会いたかったんだ」
 言われた途端、即刻、会いに来たことを後悔した。
「私は、それほど貴様に会いたくない」
 思わず口から滑り出た言葉に嘘はなかった。
 三成とて「家康に会いたい」という気持ちがないわけではない。しかし家康の「会いたい」と三成の「会いたい」は重みが違う。三成は口に出して言うほど、人目を憚らずに駆けてくるほど、家康に会いたいとは思えない。
 一心に向けられる愛情が――怖い。
 何よりも優遇される立場にあるのが恐ろしい。
 三成への想いを口にしたあの日から、家康は己を偽らなくなった。何かにつけては「三成が大事だ」「少しでも傍にいたい」と睦言を連発し、足繁く近江に通ってくる。
 だが、天下人は暇な身分ではないはずなのだ。すなわち家康は仕事をほっぽり出して、世継ぎも望めない元・敵方の武将に入れ揚げていることになる。
 天下人が「急用ができた。しばし中断せよ」と命令すれば逆らう者はいない。「近江に行く。後は頼んだ」と命ずれば皆、不平不満を抱えようとも黙って従う。
 それではいけないのだ。好き勝手をしていては、そのうち謀反を起こされるかもしれない。三成は謀反で大切な人間を失っている。もう二度と失いたくない。
 だから三成は、誰になんと言われようとも家康を甘やかすつもりがない。辛辣な態度を食らってもめげない家康だ。自重など欠片も持ち合わせていない。三成が歯止めを掛けてやらねば、泰平の世が崩れ去る可能性だって否めない。
 ゆえに「会いたくない」と断言した。そして些か落ち込んだ様子を見せている家康に容赦なく説教を食らわせた。
 だが、その最中に家康が更なる暴挙を暴露した。
「なぁ、三成。ワシらはこれでも一応、恋人同士だろう? 何故、そうもワシを突き放そうとする? もう少し優しくしてくれてもいいと思うんだが……」
 言いつつ、胡座を掻いた膝が小刻みに揺れている。そわそわと落ち着きがない。三成は、今にも飛びついてきそうな家康を殺気立った目で睨みつけて牽制した。
「貴様は優しくすると付けあがる種類の人間だ」
 伸びてきた手をパチリと叩き落として指摘した。思ったよりも力が入ってしまったようだ。唇を尖らせて、赤くなった手の甲を撫でる家康の姿に眉を顰める。
 家康はそれを、疑いの眼差しだと受け取ったらしい。
「そんなことはないぞ。こう見えて、仕事はちゃんとこなしている。嘘だと思うなら元親に聞いてみればいい」
「何故、長曾我部の名が出てくる?」
 唐突に持ち上がった名前に先ほどの疑問が重なり、三成はさらに眉間の皺を深めて、訝しげに訊ねた。
 家康はきょとんと目を丸めて、「ああ」と頷き、
「去年の年末、ようやく隠居が決まってな。年明けから三月ほど四国に滞在していたんだ」
 あっけなく、何の罪悪感もなく。
 家康はとんでもないことを口走った。
「……私には、一言の報告もなしに、か」
 あまりに衝撃が大きすぎて、押し殺してきた本音が思わず零れ出てしまった。
 だって、聞いていない。何の相談もなかった。
 隠居の話どころか、後継者がいることすらも知らなかった。
 呆然自失の体である三成に、言い訳めいた言葉が降る。
「三成はきっと怒ると思っていた。だから、どうすれば怒らせずに済むのか、元親に相談に乗ってもらっていた。それでなくとも三成は普段から怒ってばかりで、ワシに笑顔を向けてくれない。ワシに悪いところがあるのではないかと……」
「もういい」
 何もわかっていないらしい。聞けば聞くほど心の奥底に在る血水の沼が沸き立ってくる。
 三成は立ち上がり、スタスタと家康の前に歩みを進めて有無を言わさず頭を殴りつけた。そうしたら逆に拳が痛かったので続けざまに膝を蹴った。
 これには、さすがの家康も気を悪くしたらしい。
「三成。わざわざ説教をするために江戸へ来たのか?」
 誰のために説教をしてやっていると思っているのか。棘を含んだ口調、むっすりと口をへの字に曲げた顔で見上げられて、三成の苛立ちは更に倍増した。
「優しくされたいのなら、私ではなく、長曾我部を恋人にすればいいだろう。隠居しても貴様は天下人の後見人だ。日ノ本に逆らう武将はいまい」
 言った途端、家康の表情が凍りついた。
「……それは、どういう意味だ?」
「言ったままの意味だ」
 どういう風に受け止めたのか、少なくとも言わんとしていることは伝わっただろう。ぐしゃりと歪んだ家康の表情に若干の胸の痛みを感じたが、それよりも怒りの方が上回っており、さらには怒りよりも呆れの方が強かった。
 未練を引き剥がすように廊下へと続く障子に足を向け、木枯らしに揺れる庭の桜を見つめながら口を滑らせる。
「私は優しさのない人間だ。どうやら貴様の理想から外れているらしい。早急に別れた方が互いの為になるだろう」
 言うだけ言って、一度も振り返らずに部屋を出た。
 冷たい廊下が素足に染みる。鼻を啜るとキィンと耳鳴りがした。今は誰とも顔を合わせたくない。着物の袖で乱暴に目元を擦って、荷物が置かれていそうな部屋に足を速める。
 予想どおりの部屋に荷物は置かれていた。手早く身支度を整えて裏口から外に出る。可能な限り、人目は避けるべきだ。
 家康が三成に感けて、仕事を疎かにしていることは徳川に所縁のある者たちの間で知れ渡っているだろう。その家康が将軍の礼服で城下を駆け、その後、三成が泣きながら歩いていたと知れれば、きっと良くない噂を生んでしまう。
 もはや何の因果関係もなくなった天下人に悪い噂が立つのは気が進まない。この涙の理由にさえ関わっていないのだ。
 家康は何一つとして三成に与えてくれなかった。
 望まれたのは生きて、傍にいることだけ。
 だからこの涙は家康のせいじゃない。勝手に泣き、身を潜めて立ち去りながらも、背後に耳を澄ませ続ける――そんな己の女々しさが、ただひたすらに情けなかったのだ。



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