ある日の午前、石田三成は遠路はるばる、江戸城下の一角に位置する武家屋敷を訪れた。刀は腰にしているものの、近江から出てきたにしては些か軽すぎる旅装である。 薄紫の小袖に直足袋を履いた白袴、背中に小さな荷物を背負い、手には綺麗な文様の入った風呂敷をぶら下げている。 この中には俗に手土産と呼ばれるものが入っている。主君であった秀吉、師であった半兵衛以外に、まるで気を回すことを知らぬ三成にしては珍しいことだ。 三成は昔から土産という風習を疎んでいた。自身が貰ってもあまり嬉しくない。生来、食が細く、物欲に欠けた男である。食い物は腐るし、名品は蔵で埃を被ってゆくばかり。 無駄にしてはならぬだろうと、頂いた物の大半を小姓や下女へと下していたのだが、自身に贈られたものをそっくりそのまま人へ譲る、というのは贈り主に対して無礼であるような気がしてならなかった。 それゆえに、三成が他者へと土産を贈る場合も「要らぬものを貰っても迷惑だ」と考える。さりとて別段、懇意にしているわけでもない相手の好みなど知る由もない。選ぶだけで一苦労、そんなことに心を砕く暇があるなら、稽古に勤しみ、兵法書を読み、武に身を窶したい戦国の日々であった。 しかし、泰平の世を迎えた昨今。天下を二分した関ヶ原の戦いを終えた三成は、近江の山中でひっそりと隠居生活を送っている。刀を持つ手に鍬を握り、畑を耕しては縁側で茶を啜る、という毎日だ。近頃は不慣れだった野良仕事にも慣れてきた。正味な話、暇を持て余している。 このままでは老け込みそうだ、と同居している大谷に洩らしたところ、どこをどう巡ったものやら、江戸で天下人を営んでいる家康の耳に入ったらしい。 話を聞いた家康は悲しい顔でこう言ったそうだ。 「暇ならば江戸に遊びに来ればいい。というか、ワシに会いに来てくれ。もう何日、三成の顔を見ていないか……考えると近江に移住したくなる」 直接、家康から聞いた言葉ではない。家康は天下を治める身になっても、三成と恋人と呼ばれる関係になっても、ずっと三成に負い目を持ち続けている。 豊臣から簒奪した天下を治めている己の姿を見せたくないのか、断られると思い込んでいるのか、単に遠慮をしているのかは知らないが、どれだけ忙しくても、自ら近江に参じてくるばかりで三成を江戸に呼ぼうとはしなかった。 「馬鹿な奴だ」 大した手間もなく、あっさりと通された部屋の中で三成はポツリと呟いた。この武家屋敷は徳川の下屋敷だ。 今回の旅路、三成は家康に告げずに来たのだが、屋敷を管理する用人は三成の姿を事細かに知っていた。「これこれこういう者が現れたら、奥に案内して、すぐさまワシに知らせるように」と常々、家康から言い含められていたらしい。 「出向いて欲しいのなら、そう言えばいいものを」 「まったく、不器用なお方で」 初老の用人はそう言って、手ずから茶を煎れてくれた。既に使いの者が江戸城へと走っているらしい。 「じきに参られるでしょう」 彼はそれだけを告げて、そそくさと退席した。人にあれこれと構われるのは苦手だ。そんな三成の性格も伝え聞いており、気を使わせぬよう配慮してくれたのだろう。 一人残された三成は、土産の入った風呂敷を正座した膝の前に置き、ほくほくと白い湯気が立つ湯のみを両手で押し包みながら、なんともなしに周囲を見回した。 宛がわれた部屋は広くもなく、狭くもなく。落ち着きのある心地よい空間であった。開け放たれた障子の向こうに白石の敷き詰められた中庭が見える。枝葉を整えられた桜が一本だけ生えていて、よく見ると花の蕾が連なり、膨らんでいた。 ――もうじき春が訪れる。 思い、そんな自分に不思議な感覚を抱いた。昔は季節の移り変わりなど気にも留めていなかった気がする。目を向けるようになったのは土を弄り始めてからだ。 ――ああ、そうか。これが泰平か。 しみじみと感じ入って目を閉じた。豊臣の消えた今の世を想う時、三成の心には未だ薄れぬ葛藤が過ぎる。心の奥底にどれだけ土を被せようとも、未だに埋まらぬ沼がある。家康への恨みを溜めた血色の沼だ。 ふと目を開けて、掌に視線を落とす。 戦が終わった後、家康はこの手を取った。 そうして己も共にその沼へ浸かると言い出した。 「ワシはどんな場所だろうと、三成の傍にいたい」 家康が何を言っているのか、その時には理解できなかった。 関ヶ原で死闘を繰り広げた直後だ。三成は家康に敗北し、意識を失い、数日間の昏睡の後に目を覚ましたのだ。 家康は更に、言葉を連ねた。 「辛い。ワシは三成と争うのが苦しい。ずっと、己を誤魔化してきた。平気だと言い聞かせてきた。ワシは泰平の世を作りたかった。だから、そのために三成を失うのは仕方ないと、ずっと、ずっと、必死に前を見て、進むために、押し殺すために、自ら三成と争ってきた」 家康が徳川家康≠ナある為に取り繕っていた何かが、ボロボロと剥げ落ちていく様を見た。 「それでも、想いが消えないんだ」 勝者となり、天下人となったはずの男は震える声で言う。 「どうすればいい? 死んだ人間を好きで居続けなければならないのかと、ワシは恐れてしまった。三成、すまない。ワシはお前を殺してやれない。楽にはしてやれない。そうすることがお前にとって、一番幸せであるとわかっているのに、ワシはワシの我侭で三成を生かそうとしている」 握られた手の温もりも、項垂れて震えていた肩も、ポツリと手の甲に降ったぬるま湯も。家康に関わる全ての事柄が疎ましかった。顔を見るのが嫌で堪らなかった。 家康は何も間違ったことを言っていなかった。敗者は勝者の言葉に逆らえない。どれだけ死にたくても「生きろ」と命じられれば生きなければならない。 かといって、勝者となるために再度、戦を起こすのは憚られた。民衆は戦の世が終わったことに対して、安堵の表情を浮かべていた。秀吉が天下を治めていた時と同じく、頼れるものを見つけた顔だ。それを崩す者にはなりたくない。 だからこそ余計に三成は家康を嫌悪した。元より憎みきっていた相手だ。共に血沼に浸かるなど冗談ではない。隣に居座られたら、殺したくて殺したくて狂ってしまう。 狂わずに済んだのはこれのおかげだろう。 三成は目の前の風呂敷を、返した掌でそっと撫でた。 next/top/novel |