家康が客間を訪れたのは、月が沈むか否かの明け方であった。どうしても最後に顔を見ておきたかったのだ。 三成は姿勢よく静かに眠っていた。よほど疲れているのか、安心してくれているのか、襖を開けても起きる気配がない。寝返りすら打たずに規律正しい寝息を立てている。 足音を忍ばせて気配を殺して、そっと枕元に近付く。明け方の空はまだ暗く、部屋の中は深夜と変わらぬほどの闇に満ちていたが、ここは家康にとって馴染みの深い学び舎だ。忍びほどではないが夜目が利くことも相まって、虫の這う音よりも小さな物音で布団の脇にしゃがみこんだ。 「三成」 と、声には出さずに名を呼んだ。眠る三成の表情に変化はない。まるで死人のようでぞっとした。 そうではないと深い呼吸音に耳を凝らす。 そうなってしまうやも知れぬ未来に目を瞑る。 家康はこれから天下を奪いにゆく。 家康にとって、石田三成という人間は大切な、大切な――勇気をくれた存在だった。取り繕った日和見の姿ではなく、内に潜ませた武士としての家康を見てくれた。 天下を奪うということは豊臣相手に戦を仕掛けるということだ。当然、三成は敵に回るだろう。けれど守りたい、と願う心に嘘はなく、だからこそ「戦の褒章として庵の片付け」などという陳腐な理由で呼び寄せた。 秀吉との死闘に三成を同席させたくない。傷つけたくない。顔を合わせれば死合うことになる。 よしんば三成との戦いに勝利しても、あまりの喪失感に打ちひしがれるだろう。そんな状態で秀吉と戦えば、敗北は目に見えている。戦いの中で自ら死を選ぶかもしれない。日ノ本の民も、家臣も、力を認めてくれた三成さえも裏切って。 そうならぬよう遠ざけた。その点に関しては秀吉も協力してくれた。正面から左腕を引き剥がす愚策、半兵衛でなくとも易々と見通せる。あえて受けたのは好戦的な兵の理――いや、むしろ天下人の宿命と自らに科しているのか。それとも怒り狂い、己の命すら鑑みずに家康に挑むであろう三成の身を案じたのか。あるいは絶対の自信があるのやも知れぬ。 いずれにせよ戦いの鐘は5日前に鳴り終えた。大坂城天守で見た秀吉の笑みは家康の謀反を見通した上でのものだ。最早引けぬ。どちらかが倒れるまで戦うしか道はない。 されども迷い、名残惜しんで、ここにいる。 未だに朝日は昇らない。まるで時が止まってしまったかのような暗い部屋の中で家康は膝を抱える。身体が鉛のように重かった。きっかけがなければ動き出せない。 ただ静かに。穏やかな三成の横顔を眺める。 力の抜けた指を握れば起きるだろうか。あるいは健やかな寝息を立てる唇に触れれば、何かが変わるだろうか? もしも、ここで目を覚ましてくれたなら。 何もかもを投げ出して、お前を攫うのに。 思えども握りこんだ両の拳は動かない。自ら動く気は毛頭なかった。グラグラと不安定に揺れる天秤が、どちらかに傾くのを耳を澄ましながら、ただ、ひたすらに待ち侘びる。 朝日が昇る直前に家康は庵を出た。 迷いは未だ胸の内にある。だが戦場へと歩を進めれば、時機に失せてゆくだろうこともわかっている。 動き出すきっかけは天から降った。サラサラと降り出した雨音だ。家康は暗い部屋の中で屋根の向こう、はるか上空に広がる空の存在を思い出したのだ。 万人の上にある空、目指す高み、輝く太陽を。 「ワシはずっと笑顔でいよう」 白む空に人知れず誓い、朝焼けと共に降る雨粒を掌に握る。 そうして実らぬ恋を胸中に抱えたまま、歩き出す。 家康の表情には憂いも迷いもなかった。 だって、太陽が代わりに泣いてくれたのだから。 やがて忠勝が迎えに来る刻限が迫り。 家康は迎えに来る際、持ってくるよう言付けておいた三成の荷物と引き換えに一通の文を拝借した。 中を改めようとしたのではなく、謂わば、お守りのようなものだった。三成の持ち物で拝借できそうな品がそれしかなかった、というだけで家康は長い間――秀吉を討ち、三成と争うようになってからも――その文を未開封の状態で所持し続けていたのだが。 next/back/top/novel |