楽日そそり 2


「三成! よく来たな!」
 渋々と三河へ参った三成を待ちわびていたのか否か。騎乗した三成が到着した時、重厚な城門の前に佇む黄色い人影はモゴモゴと団子を頬張りながら、満面の笑みを浮かべて大きく手を振ってきた。
 三成はその姿を見ただけで最早、十分すぎるほどに平穏を味わえたように感じた。素手で戦う家康に武具の携帯は必要ないのだろうが、それにしたって些か無用心すぎる。
「家臣たちは何をやっている」
 馬を進めながら眉を寄せて渋い声を吐き出した。だが、その直後に「どうせ家康のことだ。自ら出迎えると我侭を言ったに違いない」と気づき、今度は一国の主としての自覚を持たぬ家康の呑気な笑みに憤りが芽吹く。
 三成は速度を落とさぬままに馬を駆けさせ、家康の目の前でわざと大きく手綱を引いた。緊迫した馬の嘶きと共に砂塵が舞い上がったが、家康に動じた様子は見て取れぬ。危うく撥ねられかけたというのに飛びのくこともせず、唇の間から団子の串を突き出し、手にした竹筒を手の甲で覆っている。
「それはなんだ」
 我が身よりも案ずるほどの一品なのか、と白い陣羽織の裾をはためかせながら馬の背から飛び降りて問うてみた。挨拶よりも用件を優先するのは三成の常である。家康を不得手にしているから、という理由で邪険になったわけではない。
 家康もそのことを理解しているのだろう。笑みを崩さぬままに手の甲を退けて、竹筒の中を三成に見せた。
 中を改めた三成は家康ではなく、馬の手綱を引き取りに寄ってきた門番に向けて、あからさまに棘を含んだ視線と口調で冷ややかに問いかけた。 
「こいつは本当に三河の当主なのか?」
「今更、何を言ってるんだ? 馬に酔ったか? それとも腹でも減っているのか? 疲れた時には甘いものが良いと聞く」
 ちょうどいい。これを食うといい。城下一の団子だ。ワシが保障する。甘味処を全て食べ歩いたからな。
 と、満面の笑みで差し出された竹筒を無言で押しのけた。
 竹筒の中には半透明の薄茶色の餡と、団子の刺さった串が入っていた。甘味は嫌いではない――どちらかと言うと好む方ではあるが、立ったまま食い歩く無作法は性に合わないし、今はひとまず腹を満たすよりも腰を落ち着けたい。
 その意を告げると、すぐさま城内へと通された。そして、そこでまたもや三成を苛立たせる出来事が起きた。
 用意されていた湯を浴んでいる間に着込んでいた鎧をどこかへ運び去られてしまってしまったのだ。家康の指示であると聞き、怒りを露わにしながら天守に赴くと、
「休暇に具足は必要ないと思ったのだが……」
 家康はまったく反省していない様子で視線を泳がせて、返せと迫った三成から逃亡を図った。天守に設置されていた――おそらく緊急時の脱出用と思われる滑車を使って。
「いぃえっ、やぁぁすぅぅぅぅっっ!!」
 激情に駆られた三成は即座に後を追った。家康の名を声高に叫びながら長い滑車で空中を滑り下った。
 そうして着地した勢いを殺さぬままに、待ち受けていた家康へと転がるようにして殴りかかったのだが。
「素手でワシと戦うのか?」
 家康は三成の拳を軽く片手で受け止めて、飄々と指摘した。
 そこでようやく三成は気がついた。自分が今、丸腰であるということ――鎧だけでなく愛刀も、馬に括りつけていた荷物とまとめて城の中に置いてきた、ということに。
 拳を包む掌を振り払って、下ってきた滑車の先を振り仰いだ。相当な距離を下ってしまったらしい。三河の城は広げた手に収まるほどの大きさになっている。
 そしてこの地はどうやら山奥であるらしい。うっそうと生い茂る木々に囲まれていて村や集落も見えない。付近には小さな庵が一つだけ。馬を飼っているようにも見えない。
「貴様……私を謀ったのか!」
「謀ったとは人聞きが悪いな。ちゃんと三成のことも慮ったんだぞ。人目のある城内では気が休まらんだろう?」
 家康は早々に庵へと足を向けていた。三成を気遣っているような口振りが苛立ちを煽る。だが素手で家康に挑むのは愚の骨頂である。三成はこめかみを引き攣らせて、さっさと下山してしまおうと滑車の台の上から飛び降りた。
 途端、足裏に鋭い痛みが走って舌打ちと共に眉を顰める。
 城内から直行したので三成の両足は裸足、着ているのも薄紫色の着流しだ。こんな格好で人手の入っていなさそうな山を下るのは正気の沙汰ではないだろう。
 それに、ここは三河だ。無事に山を下れたところで、ろくに面識のない民と馴染みのない土地。草履も履いていないのに金など持ち合わせているはずがない。大坂に帰り着く前に路頭に迷うことは目に見えている。
 ――まさに、身一つ。
 得体の知れぬ寒さが身を包む。三成は一通り辺りを見回してから、魂を抜かれてしまったかのように色のない表情で立ち竦み、両手をブラリと脇に下げて天を見上げた。
 底抜けに青い空だった。彷徨う眼差しが何を探したのかは自身にすらわからない。けれど墨を流したような一筋の雲が冷えた心を鎮めてくれた。
 あの雲はどこからか流れ来たものだ。果て無き広大な空であるがゆえに大坂にも同様の空が広がっている。
「……そうだ。私は豊臣の一員だ」
 ぽつりと零れ出た呟きが、まるで己に言い聞かせるかのようで不吉だった。何故こんな気分にならなければならぬのか。理由なき不安に駆られて感傷に浸るなど己らしくない。
 気を引き締めて顎を引き、前方に戻した視界の中に家康の姿はなかった。代わりに庵の戸が半分ほど開いている。中にいるのだろう。帰る、帰らないはさて置いて、まずはこんな山奥に連れてきた真意を問い質す為に歩を進めた。



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