恋をした。報われぬ恋であった。 嫌われていた。だから好きになった。 家康は、三成と同じものを嫌っていた。 争いを好まぬ自身。貼り付けた紛い物の笑顔。 それを真っ向から否定されることが嬉しかった。 内に蓄えた力を認められたような。 奮い立たされる、強い眼光。 いくつかの門を越え、大阪城本丸へと進む家康の足取りは些か重い。一見しただけではわからぬ程度の重さではあるが、長年連れ添ってきた家臣たちには見通されているようで、出掛けに「疲れておられるのですか?」と心配された。 そんなことはない、と笑むのは習慣になっている。されども習慣になっていることも見通されているのだろう。家臣たちは「無理はなされませぬよう」と言葉を重ねて、より一層、職務に身を入れてくれる。そんな時、家康は大きな有難みと少しばかりの心苦しさを感じるのだ。 家康の強がりは家臣たちを安心させる為ではない。言葉は口に出せば力を持つ。一度明言すればやらねばという気になる。家康はずっと、そうやって己を奮い立たせてきた。今回もそうだ。 ――もう待ってはいられないのだ。 秀吉はこの国を強くすると言った。家康もそれに賛同して豊臣の軍門に下った。国が一つに纏まれば、争いのない平和な世が訪れると信じていたのだ。 しかし豊臣の天下統一が成った今、日ノ本はとてもじゃないが平和が訪れたとは言えない情勢にある。検地を行い、刀を狩って、豊臣の名の下に集積された戦の矛先が向けられたのは、日ノ本を囲う海の向こうだ。戦に借り出されて、田を耕すべき男手を奪われている民に目を向けることもなく。 食わねば人は死ぬ。食う物を生むのは兵ではなく民だ。彼らはこの国を支える根のようなもの。根を弱らせれば茎も葉も花も枯れよう。それなのに秀吉は彼らを弱者と呼び、一顧だに顧みようともせぬ。幾度となく注進したが受け入れられない。秀吉は聞く耳すら持たず、半兵衛は攻め入った土地から奪えばよいと一笑に伏すばかりだった。「奪われた者はどうするのだ」と問えば「敗者の身まで案ずるとは随分と優しい心根の持ち主だ」と刺々しい答えが返る。民の目を持たぬ、彼らは生粋の兵≠ネのだ。 これも一種の教えだろうか。家康は豊臣の天下を見て「兵が天下を治めるべきではない」と学んだ。以来、自ら槍を捨て、戦いの最中であっても己に下るよう説き伏せて、一滴の流血も惜しみながら泰平の世を築かんと尽力してきた。 だが結局のところ、天下を握るのは秀吉だ。争いを望む者が覇権を握っている国を変えることは不可能に近い。 ならば己が手に天下を、といつしか望むようになった。 しかし譲り渡せと言って渡すような秀吉ではないだろう。秀吉でなくともそうだ。乱世に生まれた者ならば一度は天下を掌握することを夢に見る。己の思うがままに政を行いたいと思う。それが私欲に基づいたものであっても、大義に縁るものであっても大した差はない。「これが正しい」と自信を持って振りかざした正義とて所詮は誰かの意志を虐げる。 万人には万人の正義がある。どれだけ言葉を尽くしても、命を賭しても譲れぬ、己の魂に等しいものが。相容れられぬのなら、真っ向から迎え討つことこそ武士の誉れ。その矛先を歪めれば悔いが残る。恨みが募る。後に己の命を脅かすほどの禍根を生む。 知っている。生まれた時から体感してきた。 けれど、それでも――守りたい、と願う。 「秀吉公。貴殿は先だっての戦にて勝利の暁には望みのままに褒賞を取らせる≠ニ仰った。覚えておいでか」 大阪城天守へと上がった家康は、開口一番、挨拶もせずに言葉をぶつけた。開け放たれた窓から城下を見下ろしている秀吉の屈強な背に対して。その首が此方を向く前に。 「無礼な振る舞いと知りつつも、欲する物がひとつ」 挑むように言い切って顔を上げた。梅雨の合間に訪れた、つかの間の晴天に目を細める。舞い込んだ風が額を撫でて、その冷たさで己が脂汗を掻いているということに気づいた。 「何を、望む」 秀吉から返ったのは、短く、重い声音であった。 身体の中で鐘を鳴らされたような気分だ。比喩ではなく肝が冷えていくのがわかる。朱に彩られた肩当とその向こうに見える青空が、やけに鮮明に映り込んだ。 ――死地にある時と同じ感覚。 細切れに。ゆっくりと。肩が動く。此方を向く。 半身を返した秀吉の眼光は相も変わらず鋭かった。天下人、それも自城に居るというのに鎧も脱がぬ生粋の兵。日ノ本を睥睨し、世界を臨む秀吉は相も変わらず恐ろしかった。天下を獲る前も、今も。 だが足りないものがある。 変わらずに佇む秀吉の、傍らが空いている。 そのことだけを寄り代に拳を握って踏み止まる。 肺病で死した右腕――半兵衛を失った代償は大きい。それだけで豊臣は立ち行かなくなると思っていた。持ちこたえているのは、秀吉の存在が変わらずに在るからだ。唯一無二の友である半兵衛を失っても秀吉は揺るがず、天下の頂点に立ち続けている。 いや――立たされている、と言うべきか。 「豊臣の左腕と謳われる石田三成の身柄を借り受けたい」 家康が緊張と畏怖を隠せぬまま、告げた瞬間。 秀吉は微かに、笑ったのだから。 next/top/novel |