「三成!」 背後から底抜けに明るい声で呼びかけられたが、三成は振り返らなかった。声の主が家康であるとわかっていたからだ。 現在の三成は梅の香りが漂う大坂城内の庭園にて、豊臣に古くから仕える顔見知りの武将と対談している。何の利も生まぬ世間話など、豊臣に身も心も奉じている三成がしようはずがない。当然、話題は戦の普請、落とした戦地の処遇と復興、負傷した兵に対する手当て、それらに掛かる金を無尽蔵に引き出そうとする無能者との対談であった。 「三成、三成!」 うるさい。騒がしい。踵を返せ。三河に帰れ。 歯軋りをしながら思い、傍らの枝に咲いた白梅を睨みつける。その形相に目の前の武将が慄くのが見えた。 「せ、拙者は日を改めてもよろしいですかな!?」 ひっくり返った声が彼の感じている恐怖の度合いをよく表している。三成はここぞとばかりに脳内で弾き出した最低限の普請の金額を告げ、「これ以上は出さん」と断言した。 武将はガクガクと首を振り、足早に立ち去った。これで少しばかりは気が晴れた――そう思った瞬間、隣に黄色い人影が並んで眉間に皺が寄る。 「三成、お前の時間を少しだけ分けてくれ」 「言い方が気に食わん。そういうことは女に言え」 覗きこんでこようとする顔を、すかさず左手で押しやって、三成は家康から人一人分ほどの距離を取った。緊張だか恐怖だか把握しかねるが、どちらにせよ好ましい気持ちとは言えない。三成に衆道の気はないのだ。どれだけ考えても寒気、さらには吐き気しかしない。無理なものは無理である。 だから「諦めろ」とはっきり言いたい。 しかし言うに言えない理由がある。 三成は家康から告白、すなわち「好きだ」とか「愛している」だとか「抱きたい」、「抱かれたい」というようなことを明言されていないのだ。 では、どのようにして訴えられているのかというと、全て行動である。閨に忍び込んできて隣で眠ったり、人目を憚らずに抱きついてきたり――と、友情にしては些か行き過ぎているような気もするが、そうでないと断じきることもできない微妙な境界線で接してくる。 今だってそうだ。額を押しのけた三成の手を壊れ物のような手つきで掬い上げて、「きれいな手だな」と擦っている。 三成は腕が粟立つのを感じながら手を振り払った。 「気持ち悪いことを言うな!」 「どこが気持ち悪いんだ?」 キョトンと首を傾げて問い返されて、言葉に詰まった。先ほどの武将を震え上がらせた時よりも、ずっと恐ろしい形相をしていると思うのだが家康は一向に怯まない。体つきに見合わぬ丸い顔立ちと目つきがパチパチと瞬かれて、まるで子供のような純粋さすら感じる。 ――そうか。童だと思えば良いのか。 庭に漂う白梅の香りのおかげか。普段よりも随分と落ち着いた心持で、正面に回った家康を観察することができた。さりげなく距離を一歩縮められたが後退するには至らぬ。 家康はおとなしく三成の返事を待っていた。改めて見れば、なんということもない。時折、他の者からも向けられる類の、庇護欲を宿した心配げな眼差しだった。 三成は他者に対して、そういう欲を与えやすいらしい。秀吉以外に興味のない半兵衛や、世の中全てを憎んでいると言っても過言ではない刑部でさえも、事あるごとに「もっと食え」だとか「ちゃんと寝ろ」と己の身を案じてくれる。 家康も同じだ――断じると一気に肩の重みがなくなった。 幾らか体力も回復した気がする。実はこのところ、ろくに眠れていなかったのだ。毎日、閨に入り込んでくる家康が無体を働くやもしれぬと気が気でなかったのである。 「……なんの用だ?」 棘を含まぬ口調で問うのはいつ振りだろう? きっと長い間、邪険に扱っていたに違いない。家康は一瞬、虚をつかれたように目を見開き、それから緩々と表情を綻ばせた。 満面の笑顔になった家康が、懐を漁りつつ近づいてくる。 「実はな、さっき城下に下りた時に面白い見世物を見たんだ! それで三成にも見せてやりたいと思ったんだが、三成は庭で此度の戦の報告を受けている最中だから、邪魔をするのは悪いと思って、代わりに土産を持って帰ってきた!」 「……そうか。貴様にしては気が回ったな」 だが何故、貴様が私の行動を詳細に把握している? と、危うく口から疑問が迸りかけたが直感で押さえこんだ。 何故かは知らない。考えが及ばない。まさか実は徳川家御用達の、凄腕の忍び部隊が身の回りに潜んでいて、三成の行動を逐一、家康に報告しているなどとは思いたくない。 三成はあくまで平然とした態度を保ったまま、胸元に差し出された家康の掌を覗き込んだ。家康の逸脱した親愛表現を、別の何かだと認めてしまったら負ける気がする。何に負けるのかは、もちろん考えたくない。 意識的に思考を止めて家康の掌を見下ろすと、質の良さそうな絹ごしらえの袱紗が広げられていた。そして、その上に親指の先ほどの小さな粒が乗っている。 「これは……」 「凄いだろう!?」 鼻息荒く、どこか誇らしげに胸を張っている家康と、赤い袱紗の上に鎮座しているそれを、交互に何度か見比べた三成は返答に困ってしまった。 それは白くて小さな、兎の形をした飴だった。 特に目新しい部分はない。流しの飴売りが日常的に売り歩く何の変哲もない飴だ。しかも職人の腕が至らなかったせいか、身体が潰れた饅頭のようになってしまっている。これはこれで愛嬌があると言えなくはないが、声を弾ませて感動するほどの出来映えではないだろう。 と、そう考えてから思い当たることがあった。 そういえば家康は幼い頃、今川の人質になっていた。 人質はその名目どおり自由にならぬ身だ。当然、城下に下りることなどできなかっただろう。城の中で信の置けぬ大人たちに囲まれて耐え忍ぶ生活を送っていたのか―― 三成は幼い頃の家康の姿を想像しようと試みた。 だが、上手くいかなかった。 よくもまぁ、こんな真っ直ぐな性根に育ったものだ。どれだけ真摯に想像を巡らそうとも、今の家康が目の前にいる限り、落ち込む姿は見えてこない。戦乱の世の理ゆえに初めから同情する気はなかったが、 「それで、わざわざ買って帰ってきたのか?」 三成は苦笑交じりに問いかけた。「反応に困る」だとか「馬鹿げている」といった苦笑ではなく、からかうような、我ながら親近感を滲ませた苦笑だった。 なんだか可愛げがあるように見えてきたのだ。 こんなちっぽけな飴一つの出来事なのに、家康はコクリと大真面目な顔で頷く。三成が飴を指先で摘んで眺めると、間髪入れずに「さぁ、食ってみてくれ!」と迫ってきた。 たしかに、土産なのだから当然の要求であろう。 しかし三成はキラキラと輝く双眸を受けつつも――いや、受けたからこそ、手にした飴を袱紗の上へとそっと戻した。 その動作を見た家康の顔が一瞬にして曇る。 「……ワシの土産は食いたくない、か?」 どうやら日頃、邪険に扱われていることは解っていたらしい。それでも纏わりついてくる精神は理解不能だが、不純な動機でないのなら悪い気はしない。 胸にほんのりと宿った温もりを口に上らせる。 「私は、飴を噛んでしまう癖がある。せっかく愛嬌のある兎なのだから、噛み潰すのは忍びない」 三成は温和な口調と表情で飴を返した理由を述べた。 こんな風に人の気持ちを推し量ることは稀であるから、上手く伝えられたかどうかは定かでないが、「大切にしたい」と思ったことだけでも伝えられたらいい。 しかし、そんな甘い気持ちはすぐさま吹き飛んだ。 「それなら練習しよう!」 意気揚々と家康は叫んだ。何を言い出すのかと驚いて、ポッカリと開けた三成の口に飴を、摘んだ指ごと捻じ込んで、 「ああ、指だと汚いな。こっちにしよう」 「!?」 伏せた瞼が近い。思わず引いた腰に腕が回って、もう片方で頭も引き寄せられた。鼻がぶつからぬようにと、すかさず顔を斜めに傾けた手管が長けている――何の手管だ? 答えが導き出される前に唇が触れて。 味わったことのない分厚い肉が掻き混ぜる。 目の眩むような甘味が、どこにあるのかわからない。 吸い上げた空気すらも甘く、熱がどこまでも上昇してゆく。 さりとて、終わりは唐突に訪れた。 「練習になったか?」 唇を離した家康は無邪気な笑みを浮かべていた。相変わらず童のような笑顔だ。邪念は一切感じられない。 ――ならば、私が妙なのか。 口の端に垂れた涎を拭われて心臓がドクリと跳ねた。 頭が茹って、血の巡る音が騒がしくて、何も考えられない。 耐えかねた三成は、脱兎のごとく逃げ出した。 梅の香の中、取り残された狸は内心を吐く。 「やっぱり三成は優しいなぁ」 そうして置き去りにされた兎を噛んで、無残な甘さにゆるり、ゆるりと瞳を歪めた。 了. ----備考---- とびみずさんの御本に寄稿した小説です。 真っ黒権現が好物です。 top/novel |