三日目の夜、三成は目を覚ました。 喉が酷く渇いていた。けれど三成の身体は動かない。身じろぐとガサリ、と乾いた音が背中から聞こえる。どうやら藁の上に寝かされているらしい。 ――まだ、生きているのか。 三成は絶望的な気分で薄暗い天井を見上げた。視界が歪んで定かでないが、ここが涅槃でないのは確かだ。隙間だらけの天井を頼りない梁が支えている。キチンとした施工で建てられた屋敷ではない。おそらく山小屋だろう。 ――あの戦いに、邪魔者が入ったのだろうか? だとすれば余計なお世話だ。三成は関ヶ原の地で家康と対峙した時、死を覚悟していた。わざと死んでやろうというのではなく、単に戦で培った本能で理解したのだ。 負ける。殺される。 恐怖はなく、雨が身に染み入るように感じた。それでも戦ったのは武士の意地か、それとも家康の中に少しでも「石田三成」という人間を刻み付けたかったのか。 答えは出ない。今となっては考えるだけ無駄だ。 もう二度と、家康と会うことはないのだから。 その日の夜、家康は三成に嘘を吐く。 家康はあの後、関ヶ原から程近い、伊吹山の奥深くに三成の身柄を隠した。そして自身は山を下り、いくつかの農村を回って、薬と食い物、庶民らしい着物と――情報を集めた。 あれから家康は東軍の本陣に戻っていない。三成の容態が決するまで戻るつもりもない。東軍は勝ったのだ。家康が戻らずとも影武者の竹丸で事は足る。 それよりも今は三成の容態だった。 この三日間、出来得る限りの治療を施したが、三成は目を覚まさず、熱も引かない。このまま死んでしまうのなら、それはそれで構わないのだが、せっかく助けようと思ったのだし、できれば生きて欲しいものだと思う。 ――だって、妙案を思いついたんだ。 川で水を汲み、三成を寝かせている山小屋に向かいながら、家康は子供のような笑みを浮かべる。 夜空には雲ひとつなく、無数の星が煌いていた。 五日後、家康は女を殺した。 家康は三成が目覚めた後も毎日、山を下りて情勢を探った。三河武士は優秀だ。主がおらずとも早々に残党狩りの指示を下し、西軍の逆転の目はないと言っても過言ではない。 これでいい。何もかも思い通りになる。 家康は無邪気な笑みを湛えて腕を振るった。周囲に生い茂る竹林がサワサワと音を鳴らしていて心地よい。この作業を終えたら少し散歩でもしてみようか。 もう少し怪我が良くなったら、三成を連れてくるのもいいかもしれない。今ならば肩を並べて歩くこともできるだろう。 家康は嘘を吐いた。「ワシは徳川家康の影武者をしていた竹丸という者だ」と。「家康公の考えは理解できない。ワシは豊臣の天下を揺るがす気がなかった」とも伝えた。 三成は目覚めた直後こそ、うろたえたが半刻も経たないうちに落ち着きを取り戻し、「世話になった」と礼を一言述べて立ち去ろうとした。しかし身体が思うように動かないらしい。 家康は「西軍の再編をするにしても、しばらくここで養生していった方がいい」と助言した。そして三成のために東軍の動きを探る、という名目で山を降りている。 今日は三成の命を拾ってから五日目だ。 この女を発見できたのは僥倖だった。 女は細面で三成によく似た白い髪を持っていた。村の女ではないらしい。フラフラと戦地を徘徊し、戦に従軍する足軽に身体を売って日銭を稼ぐ生活をしていたようだ。 家康は客のふりをして女に近づいた。女は二つ返事で家康についてきた。そうして人目につかない竹林の中で女の首をへし折り、女の死体に処置を施している最中だ。 持ってきた鉈で髪を切り、適度に顔を潰してから、首を落とす。その首を藁と布で包んでから、背負っていた籠に入れて、東軍の武将たちが駐留していそうな大きな街まで歩いた。 日が落ちてから街に入るつもりだったのだが、些か早く着いてしまい、仕方がないので街の中を散策することにした。 夕刻の街は込み合っており、飯の良い匂いがそこかしこから漂ってくる。食欲を刺激された家康は一軒の酒屋に入った。 「適当に見繕ってくれ」 籠をイスの隣に下ろし、注文を取りに来た女に言った。 すると女は「あいよ」と威勢の良い返事を返し、 「兄さん、言葉が違うなぁ。東の人?」 と、少しだけ苦渋を滲ませた口調で付け足した。 「ああ、そういえば近江は石田三成が治めていたな」 周知の事実であったが、家康は今、女の態度で気がついたかのように受け答えた。今の家康の服装は裾の解れた単衣に袴と脚絆、商人と足軽の間といった体だ。きっと女は家康を東軍の足軽だと思っており、己の住み暮らす土地を治める領主が戦に負けたことを快く思っていないのだろう。 「石田殿はよく出来た領主だったと聞く。残念だな」 「なんやぁ、お侍さんじゃあないんか」 家康の惚けた答えに、女はあっさりと騙されてくれたようだ。腫れぼったい唇をへの字に曲げて、東軍がいかに汚い手段で天下をひっくり返したか、熱弁を奮い始めた。 家康は真面目な顔で相槌を打ち続け、女の弁を聞きつけて集まってきた地元の者たちの話にも熱心に耳を傾けた。 そうして勘定の際に真実を告げた。 「ワシはつい先日まで三成のことが嫌いだった。三成は皆と同じようなことを言ってワシを貶すんだ。しかし、死んだ人間を悪いように思いたくない。だから今は三成を好きになる努力をしている。今日の話はとても良かった。ありがとう」 銭を手にポッカリと口を開けている女へ向けて、軽く頭を下げる。暖簾をくぐりながら背負い直した籠の中で、紫色の布に包まれた首がコロリと転がるのがわかって、どうしようもなく可笑しかった。 七日目、三成は小屋の門前で竹丸の帰還を待つ。 「少し、遠くに出かけてくる」 そう言って竹丸が出かけたのは二日前の朝だった。その言を聞いた三成の心が休まったのは言うまでも無い。 竹丸は影武者として徴用されていたと言うだけあって、家康と瓜二つの姿をしており、口調や振る舞いも、家康本人と見紛うほど似ている。 三成は竹丸と初めて顔を合わせた時、大仰にうろたえた。 先ほどまで殺し合いをしていた相手だ。二日経っていると言われても実感など湧かない。三成の時間は関ヶ原の本陣で家康の拳を受けた時から止まったままだった。 愛おしいと思いながらも嫌われて、裏切られて悲しいのに、殺したいほど憎かった家康。そんな複雑な感情を抱いている相手と、まったく同じ顔を持つ人間が友好的な態度で出現したのだ。平然としていられようはずがない。 三成は混乱の極みに陥って、藁の上でジタバタと足掻いた。動かない身体や傷の痛みに苦悶し、竹丸に八つ当たりのような文言を喚き散らし――相当、無様な醜態を晒した。 情けない話だ。きっと竹丸は戻ってこないだろう。 ゆえに三成は竹丸が出かけていった当日にでも、ここから立ち去ろうと思ったのだが、はたと気付いて足を止めた。 ――ここから、どこへ行けばよい? 西軍は負けた、と竹丸が言っていた。総大将である三成は追われる身だ。刀は手にあるが、歩くことすら覚束ない身体で振るえるはずもない。すぐに捕まってしまうだろう。 死ぬのは怖くない。本当だ。 けれど戦うこともできずに捕まるのは嫌だった。捕まれば市中引き回しの後に衆目の下、首を落とされる羽目になる。 迷い、悩み、まんじりともせず一晩を明かした。 そうして気を失うように眠り、起きたら夕刻を迎えていた。 間の抜けた話だ。今から山を下りるのは躊躇われる。「万全の体調であれば」と歯噛みしながらも小屋に戻った三成は、水を飲もうと瓶を覗いて、ようやく「竹丸が戻ってくるのを待ってみるか」と考え直した。 瓶の中には、ちょうど二日分ほどの水が貯留されていた。寝床にしていた藁の傍にも二日分と思われる食料がある。普段から食の細い三成には多すぎるが、家康と同じ体躯を持つ竹丸にとっては、これで二日分なのだろう。 水を飲み、食い物の中から熟れた柿を一つ、頂戴して小屋の入り口に座り込んだ。肩に刀を抱き、手にした柿へとしゃぶりつく。手首や首筋にボタボタと汁が垂れるのも構わず、三成は一心不乱に食った。 熟れた柿はいつだって甘いし、夕日はいつ見ても赤い。 そんな当たり前のことが、やけに染み入る。 next/back/top/novel |