頭に被った酒のせいだろうか。身体がだるくて動く気がしない。畳を代えてもらったその手で布団を敷いてもらい、まだ夜も浅いうちから床に入った刑部は、ぼんやりとした頭で先ほどの出来事を反芻していた。 歯痒く悔しい、惨めな感覚を味わった。 女将の舞を眺める官兵衛の横顔。すっかり型がついてしまって分けられたままの前髪に遮られることなく、楽しげに緩んだ目でハラリと揺れる若葉色の小袖を追っていた。 こんな顔をすることもあるのかと驚いて。 そんな目で見られたことが一度もないと思い。 当然であろうと我に返って、己の考えにぞっとした。 今更、何故。気がつかなかったのが不思議だ。全身に広がる醜い傷、 刑部は誰よりもそれを疎んできた。だからこそ衒いなく肌を晒して官兵衛と身体を重ねている。さぞかし気味が悪いだろうと、そう、最初は嫌がらせでしかなかった。 もしも未だに当初の目的が達せられているのなら――醜い、醜いと蔑まれているのか。蔑まれているのにいい気になっていたのか。 きっと、そうだ。官兵衛は舞に目を細めて、刑部にはギラギラと獣のような目を向けていたではないか。身を焦がされるようなあの眼差しは憎悪を宿していたに違いない。 確信を得て、考えれば考えるほどに気分が悪くなり、見たくないものが身の内から湧き出てくるようだった。 何も考えたくない、それなのに談笑する官兵衛と女将の姿が目に入って心がひどく乱される。 いや、違う。乱れているのは己の心だ。己で制御できなくてどうする。官兵衛ごときに乱されてなるものか。 多様な意思が目まぐるしく飛び交った。どれもが官兵衛と繋がっていて、総じて刑部自身が主体ではない。ああいう反応を見せたらこうしようだとか、きっとこうなるだろうからああしよう、といった具合に悪巧み一つにしたって官兵衛がどういう風に動くか、考えてから決めている。 だから、あえて何の策も弄さずにフラリと外出してみようと思い立った。ついてこいと言わずに、ついてこさせるよう仕向けることもなく、それでも官兵衛がついてきたら、振り回しているのはやはり我であったと証明できる。 しかし官兵衛は誘いに乗ることなく、それどころか女将の申し出に乗っかる形で見も知らぬ誰かの世話になれ、と勧めてきた。刑部は他人の手を借りるのを嫌っている、そのことを存分に知っているはずなのに。 普段の官兵衛ならば、決してそんなことは言わない。適当に口裏を合わせたような、投げやりな言い方だった。 ぞんざいに扱われた。それは何故か。 自分ではない誰かを優遇しているからだ。 思い至ってスッと臓腑が冷えた。心底、どうだっていいと思った。そうして酒をぶちまけた後、見たくない何かが込み上げてくるのを感じて小さく唇を噛んだ。 ひとしきり思い返した刑部はごろりと寝返りを打って、縁側の方角に身体を向けた。飛び込んできた光のまぶしさに目が眩む。部屋の中は消灯しているが、縁側の電気は点いていて障子越しに橙色の明かりが差している。 白い障子には椅子に座った人影が映し出されていた。 「くら」 小さく、息を吐くのと変わらぬ大きさで呟いた。都心の地元とは違って、ここは静寂に満ちているので予想よりも大きく聞こえたが、官兵衛はそれを空耳だと思ったようだ。 橙色の障子に映し出された人影が、辺りを探るように揺れ動き、元通りに椅子へと座り直すのが見えた。 刑部はしばらくの間、細めた目で影を注視していた。けれど何もしないまま、もう一度寝返りを打った。慣れぬ質感の枕に頭を擦り付けて、再び障子に背を向ける格好になる。 用はなかった。単に、ふと呼んでみたくなっただけだ。 くら≠ニいう名は官兵衛と出会って間もない頃、刑部が戯れに付けた名前だ。「誰に拾われたのか忘れぬように」と恩着せがましい注釈付きで与えられた名を官兵衛は酷く嫌がって、呼ばれる度にムッツリと口をへの字に曲げていた。それが面白かっただけで、他には何も考えてはいなかったように思う。 けれど呼ばなくなった。きっかけは官兵衛が働いている姿を見たからだった。同僚に囲まれ、快活に笑い、時折指示を与える官兵衛が知らない人間のように見えて「これは人だから、自分だけのものにはできないのだ」と思い知った。 それでも、首輪を掛けたがる理由はわからない。 官兵衛が他人と親しくしていると心が勝手に喚くのだ。 これは我のものだ。寄るな、触るな、と―― きっと刷り込みなのだろう。子供の頃の感情に引きずられて、自分専用のおもちゃを取られたと思ってしまうのだ。 どうせいつかは離れ離れになる他人だというのに。 ツキリと疼く胸元を押さえて口元を歪めた。浴衣と包帯の擦れ合う衣擦れの音が静寂に響く。煩わしい、早く眠って何もかも忘れてしまいたいと思えど、妙に目が冴えて眠気が忍び寄る気配すらない。 膝を折り、身体を縮めて暗闇を見据えていたら、 「……刑部?」 と、唐突に光が強まって呼びかけられた。 返事をするのが億劫で、光を拒むように布団の中へと潜り込んだ。急に声を掛けられたせいでビクリと肩が震えてしまったが、これは寝惚けたフリで容易に誤魔化せよう。 思ったとおり、官兵衛はそれ以上呼びかけて来なかった。 しかし、代わりに畳を踏みしめる音が近づいてくる。 刑部は掛け布団の中に潜り込んだまま、しっかりと目を閉じた。官兵衛が何をしようとしているのかは謎だが、今は一言たりとも言葉を交わしたくない。 去れ、去れと念じていたら、そっと布団を捲り上げられた。 無粋な男よ、と内心で毒づいた。目を閉じているので詳細はわからないものの気配は感じ取れる。官兵衛は刑部の正面に回り込み、顔を覗き込んでいるらしい。 眉間に皺を寄せぬよう気を払いながら、更に強く立ち去れと念じていたら頬の辺りを指先で弄られた。寝惚けてむずがっているようなフリをして枕に顔を埋めても、しつこく肌を覆う包帯へと絡んでくる。 一体、何がしたいのだ。ソロリソロリと触れてくるくせに、まったく隠密性のない官兵衛の挙動に苛々してきた。 起こしたいのなら別の手段を講じるべきだ。 大体、何ゆえ、我が狸寝入りをせねばならぬのか。 そもそもの矛盾に気づいて瞼を開こうとした。 しかし、そのタイミングが凄まじく―― 「なぁ刑部。お前さん、もしかして嫉妬したのか?」 悪かった。悪すぎた。ゆっくり面倒そうに邪険な態度で起き上がろうとしていたのに、思わず目を見開き、 「ヌシは馬鹿か? いや馬鹿よ。どうすればそうなるのやら。我がいつ、どこで、どんな風に嫉妬したと? ああよい、答えずともよい。そんなはずがあるまいて。なんとも面妖なことを言いやる。女将も言うておったではないか。アレは単に癇癪を起こしただけの話で我は何も気に病んでおらぬわ」 全力で否定しに掛かってしまった。布団の上に跳ね起きて、官兵衛の方を向いて、少々前のめりになりながら一息に言い終えて――ハッと気づいた。 墓穴。 その二文字が浮かんでは消え、浮かんでは消えてを繰り返す。膝の上で握り締めた拳の、包帯の下の掌からジワリと嫌な汗が出て、噤んだ口の中で薄い舌が所在なさげに蠢いた。 落ち着きなく彷徨う視線が捉えるのは、橙色に照らされた枕と魂を抜かれたような官兵衛の間抜け面。刑部と同じくシャワーで酒を洗い流したために、普段どおり前髪で覆い隠されているが、どんな目をしているかは容易に推測できる。きっと見開かれて丸くなっているだろう。 だって、否定の言葉で暴露してしまった。 嫉妬ではない。それは断言できる。けれど嫉妬よりも、もっと性質が悪い。どのように悪いかというと外聞が悪い。 官兵衛が自分よりも女将を優遇した。それが酷く気に食わなかった。相手が誰であっても同じ感情を抱いただろう。我侭が通らなくて悔しかった、何故、自分以外の者と仲良しこよしをしておるのだ、と――まさに子供の癇癪だ。18にもなって起こす類の癖ではない。挙句の果てにはそれが正しいとまで思っていた。正当な権利だと思っていたのだ。 恥だ。醜聞だ。だからこそ刑部はおとなしく引き下がった。 暴露されてはたまらぬ。何がなんでも、官兵衛にだけは悟られてなるものかと、苦い思いを噛み締めながらも冷静な態度で会話を打ち切った。 それなのに――自ら明言してしまった。 官兵衛は未だに呆然とした顔で刑部を眺めている。どうにもこうにも具合が悪い。弁明も誤魔化しも思いつかなかったので布団の中へと逃亡することにした。 捲られた掛け布団を掴み、頭まで被って身体を丸めた。官兵衛は相変わらず布団の脇にへたり込んでいるが、完全に無視だ。いないものとして扱うことにする。 そうして――どのくらい過ぎただろう? 「刑部」 やたらと長く感じた静寂の後に名を呼ばれた。 刑部はギリギリと奥歯を噛んだ。たしかに逃げきれるとは思っていなかったが、もう少し人の気持ちを推し量ることができぬものか。あえて聞かなかったフリをして立ち去るのが、大人の態度、男の度量というやつではないのか。 返事は当然、返さなかった。 すると官兵衛は布団の上から覆いかぶさってきた。体重はほとんど掛けられてはいないものの、布団で推し包むように身を寄せられて息苦しい。 その上、更に「刑部」と何度も呼びかけてくる。 「……用があるなら、はやに言え」 頭まで被った掛け布団を引き剥がされそうになったので、嫌々ながらに口を開いてやった。我ながら嫌気に満ち満ちた声音だ。いくら官兵衛が人の気持ちを推し量れぬ駄犬でも、さすがに引き下がるだろう。 だが、官兵衛は刑部が思ったのとは真逆の行動に出た。 容赦なく布団を引き剥がし、すかさず再び背中に覆いかぶさってきて、包帯に覆われていない刑部の耳朶を噛んだのだ。 next/back/top/novel |