強い日差しに目が眩む。 怯むことなく佇む背中が憎らしい。 背に、襟首に届かぬ位置から指が伸びる。 「醜いものは見たくない」 固い声音で動きが止まった。 「お前さんは庭木じゃないだろう」 振り返り、見下ろす視線に水気がない。 それを不思議に思うほどの面構え。 脳が空洞になったのか。 声は音のまま、意味を解さず吹きぬけた。 頭の出来は大層よいと自負している。意図して戯言に乗ることはあっても騙されることはまずないであろう。ましてや相手があの暗となれば。 あの様では幼子でさえも騙せるものか。官兵衛は聡いが人を操るのに不可欠な、肝要な部分が抜け落ちている。内に抱く感情が表に現れるのだ。表情を繕えば声が、声を繕えば態度が、という風にどれほど気をつけてもどこかしか一点、穴が開いており、完成された虚像を結べぬ仕様となっている。 「やれ、ひび割れた鏡よ」 刑部は布団の上に鎮座したままハラハラと片手を振り、触れぬままに障子を閉めた。病んだ目に昼の光は眩すぎる、と何故気づかぬのか。「言わずともわかるだろうに。三成は気づいた」と何かにつけては世話を焼いてくれる無二の友を並び立て、「比べる余地もなかった」とすぐさま己の考えを根から駆逐した。鷹と小蝿を比べるようなものだ。比べること自体が馬鹿げている。 三成は甲斐甲斐しい。毎日のように刑部の屋敷を訪れるのに、律儀にも必ず手土産を持参する。咳をすれば顔を引き攣らせて、少しばかり返事が遅れただけでも案じるような視線を寄越すし、無理をすれば眦を吊り上げて怒声を飛ばすほどだ。布団に押し込まれて「寝るまで見張る」と一晩中、枕元に座り込まれたことも一度や二度ではない。 対する官兵衛は手土産どころか気遣いもしない。健康であった時となんら変わりなく、気が向いた時にフラリと現れては小姓に茶をせっつき、出先で行った軍略について一方的に物語り、意見を求めては否定して論破しようとしてくる厄介者だ。きっと弁舌と共に配慮の精神も欠けているのだろう、刑部の体調が優れぬ時に限ってズカズカと上がりこんでは、あれやこれやと語りかけて居座り続ける。そうして、ただひたすらに刑部を疲れさせて帰っていくのだ。 「ほんに役に立たぬ」 障子紙に遮られて些か緩くなった日差しへと目を落とし、深く重いため息を吐いた。何度言い負かせば無駄と知るのか。口下手な官兵衛が刑部と言い争って勝てるはずがない。そこを理解してこそ伸びる芽もあるだろうに。 刑部は官兵衛の才を真剣に惜しんでいた。もう少し己の分を弁えれば、感情に突き動かされずに言葉を紡ぐ能力が備われば、と切に思う。智謀を生むは言葉なり、人を動かすのも言葉の妙技がいる。いくら出来のよい頭を持っていても口先の立たぬ官兵衛は才を生かせぬ「暗」でしかない。そのことがどれだけ惜しまれているか。付き従う部下のぼやきに耳を傾けてもおらぬのだろうか。 いや、聞いてはいるのだろう。しかし聞いても利かぬとあらば聞いていないのと同じことだ。さしずめ指摘を受けるたび、揶揄される都度、「だからなんだ、小生の私用に口を出す権利があるのか」と口元を歪めて不恰好な笑みを作りながら周囲を威圧しているに違いあるまい。先ほどのアレはそう思うに容易に至る面構えであった。 強く風が吹いたのか、ピシリと隙間なく閉めた障子がカタカタと音を鳴らす。 「厄介な……ほんに、まっこと厄介な」 薬で焼けた声でボソリボソリと小さく呟き、身体を横たえる。目を閉じれば先ほどのアレがまざまざと浮かんで辟易した。 元より悪化の一途を辿る体調が更に芳しくないのだろうか、やけに鮮明な輪郭と熱を持って瞼の裏に焼きついてしまった間抜け面。亡くした者の幽霊を見たような面持ちだ。人をなんだと思っているのやら。庭木に例えた声音にも滲み出ていた。盆に帰った母の御霊を引きとめようとする、馬鹿な子供のような必死さ。むさくるしい大の男には不似合いで、いっそ滑稽にすら映る。喉が痛い、頭も痛むというのに笑いが込み上げてきて身が辛い。 刑部は仰向けに横たえていた身体を返して横這いになり、腹を抱えて「ヒッヒッ」と声を荒げた。息を吐くのに合わせて繰り返しツキリと頭が痛むし、喉は鮮血が溢れそうなほどにかさついている。 「これは、いかぬ」 と、笑いを堪えて身体を捻り、うつ伏せになった。ようよう思い返せば、体調は朝から芳しくない。枕の上へ腕を伸ばして、猫の顎を撫ぜるようにヒョイヒョイと指先を動かす。 カタリ、と音が落ちた。壁際に置かれた小棚が独りでに開く。中に入っていた薬方の包みがフワリと宙に浮いた。さながら蝶のように舞い、伸ばした刑部の指先にピタリと止まる。刑部はそれをクルリクルリと指先の上で回転させて、開いた掌の上へと花びらのように舞い落とした。しばしの間マジマジと眺め見て、今度は手を使わずに視線のみで包みを動かそうと試みる。 勢い余って頭上の高さまで浮かばせてしまったが、意識を絞ればすぐに目線の高さに留まった。 「これならば、ゆけるかも知れぬな」 得心がいったように一人頷き、更に意識を集中させる。折り込まれた包みを念のみで開かせようとしているのだ。 身を蝕む業病を患ってから付いた、この能力を人前で使ったことはない。見られれば今よりもなお恐れの対象になろう、と封じてきた。もしくは使わずにおれば弱まるもの、使えば使うほどに病が進行すると思ってきたのやもしれぬ。それほどまでに、病が連れ来る痛みを嫌っていた。身体を蝕む熱を、醜く爛れた皮膚を、なによりも迫り来る死の影を恐れていた。 眠れば二度と目覚めぬ気がするのだ。悪い夢ばかり見るのだ。皮膚の下に植えつけられた虫の卵が孵り、肉を食い荒らす。そうして空っぽになった皮袋から一斉に、血色の蝶が飛び立つ夢。 「そう、か。なればこそ、」 ふと気づいた思惑に意識が逸れて、半ば解きかけていた薬の包みが掌に落ちた。 変わりなく振舞うのも、勝てもしない口論を嗾けるのも、体調の悪い時にこそ居座ることも。 疲れ果てさせ、夢すら見ずに眠らせる。 はたまた、病を忘れさせる為であったのか、と。 ピリリ、と痺れるような音がした。見れば掌の上で包みが破けている。無残に裂かれた懐紙の合間からサラサラと零れた乳白色の粉が、クルリと渦巻いて包帯の間に紛れ込んできた。 「やれ、面倒な」 刑部は渋々身を起こし、片手を天に向けたままで障子に這いずった。戸を開き、瞳を焼く陽光に軽い目眩を起こしながら縁側に出て、庭の土へと粉を撒く。 手を叩き合わせて面を上げると枯れ落ち、荒んだ庭木の群れが見えた。 「……醜い、醜い。人の手なくば生きられぬとは」 己もいつしかこうなるのか。揶揄された言葉を思い返して気が滅入る。きっと官兵衛はこれを見て言葉を紡いだのであろう。閑散とした木々の枝は我ながら自身を揶揄するにふさわしい。 自虐的に口を歪ませて「ヒヒッ」と掠れた声を撒く。叩き合わせた掌を握り合わせて縁側に座した刑部の髪を、冷たさを孕んだ緩やかな風が乱した。と、身体の中央から寒気が沸き立つ。肌に感じたのではなく腹にポッカリと大穴を開けられて、そこを風が通り過ぎたかのような感覚だ。いつの間に、こんな穴が開いたのだろうか? ブルリと一つ、身震いをした。「何が気に障ったのかわからぬが、あの様子ではもう二度と暗はここに現れぬやも知れぬ」と変な拍子で思いつき、水気を失った黒白斑な前髪の下で眉を寄せる。どうもいけない。これではまるで官兵衛が穴を穿ったようではないか。あんなボンクラに傷をつけられるほど弱った覚えはないのだが―― 重く嘆息する為に大きく息を吸い込んだ。どこぞから流れ来た金木犀の香りが鼻腔をくすぐる。 香の元を探ろうと骨のような庭木から目を離して白壁を見やれば、奥には紅く染まった山があった。 ――なるほど。庭木ではなく、あれを見たか。 吐き出しそうとした息の根が止まっていた。 慌てて呼気を再開し、落とした視線の先にはクルクルと宙を舞う落ち葉の影。 無風である。意図はしていない。そう、思ったつもりもないのだが。 「……暗め」 幾分か熱が上がったような額を押さえて腕を伸ばす。 ひょいと払った指先で、嬉しげに舞い踊っていた枯葉たちがバシリと爆ぜた。 (口惜しや、しかりと学んでいたではないか。しかも人の病を糧にして) 了. ----備考---- 飛べない刑部に夢を見ました。 top/novel |