盲目の恋【枷】 1



 稲葉山の山中は年中霧が深い。拾い集めた薪もすぐに湿気てしまい、数日の内に使い物にならなくなると聞いていた。
 ――この薪も本来なら腐り果てる運命にあったのだ。
 三成はパチリと跳ねた囲炉裏の火を眺めて考えた。そうして、たったそれだけのことで止まった涙がまたもや溢れ出しそうになる己を恥じた。
 だがどうしても視界が歪むのを押し止めることができない。
「こんな、哀しいことは、私の生涯に二度とない。一生に、一度くらいなら、半兵衛さまだって…許して下さるはずだ」
 と、掠れきった声で半ばしゃくり上げながら自分に言い訳をして、抱えた膝の上にホロリと涙を零した。
 丸めた背をヒクリ、と震わせる度に身を包む紫色の掛布から亡き人を偲ばせる甘い香りがフワリと漂って哀愁を誘う。見覚えのある布だ。相当古い物らしく、端が解れてボロボロになっている。
 両膝に頬を押し当てて解れをよくよく眺める内にふと懐かしい記憶が甦り、この布をどこで見覚えたか思い出した。これは三成がまだ小姓として仕えていた頃の寝具だ。
 幼い頃の三成は奇怪な夢をよく見る子供だった。夜中に魘されては何度も飛び起きて、同じ小姓仲間であった刑部の布団に潜り込んでいた。
 しかし子供の布団である。2人で眠るには些か手狭であり、尚且つ当時の三成の寝相が大層悪かったものだから、刑部は毎朝床の上で起きる羽目になっていた。
 半兵衛はそんな2人を見かねて、部屋に招いてくれたのだ。
「三成くん、君は豊臣の武将になるんだろう?だったら夢なんかで泣いていてはいけないよ。戦国の世はもっと辛い。強くなければ生き残れない。秀吉はそういう世界を作ろうとしている。君も吉継くんも、僕たちと同じ道を歩むんだ。弱い子は置いていくしかない。だから強くならなきゃいけない。分かるだろう?」
 半兵衛は何度も三成に言い聞かせた。厳しいことを言いながらも、悪夢に魘されれば再び寝付くまで寄り添ってくれていた。
「半兵衛さま……」
 解れた布の端を握り、ぐっと嗚咽を堪えた。哀しい、辛い、子供の頃のように大声を上げて咽び泣きたい。けれど己は豊臣の武将だ。ましてや謀反の噂を囁かれている家康の前で、これ以上情けない姿を晒すわけにはいかない。
 三成は今、稲葉山本陣の裏手にある小さな庵に滞在している。連れて来たのは本陣にフラリと現れた家康だ。何故現れたのか、己を探し回っていたのだろうか。思うに至って三成の涙腺はすぐさま決壊した。迷子になった子供が両親の姿を見つけたかのように安心したのだ。家康が言ったとおり、独りで泣くのは辛かった。
 そうして三成は家康に頭を抱き抱えられたまま、土砂降りになった豪雨の中で一歩も動けずに泣き続けた。家康は何も言わずに付き合い、泣き疲れてフラフラになった三成を抱き抱えるようにしてこの庵に運び込み、冷たい雨水の滴る服を脱がせて火を焚き、手ずから風呂まで沸かしてくれた。
 家康は今、風呂に入っている。「先に入れ」と勧められたが、「さすがにそこまで厚意に甘えるわけにはゆかぬだろう」と断り、「貴様が先に入れ」と促した。
 甘えるわけにはゆかぬ、というのも本音ではあるが、独りになりたかったというのもある。散々泣き尽くして冷静になった頭が考えるべきことを思い出したのだ。
 家康には告げていないが、三成はつい数時間ほど前にもこの庵を訪れている。葬儀の席で官兵衛と争い、家康に止められた後のことだ。三成は一目散にこの庵へと駆けた。
 どうして足が向いたのかはわからない。半兵衛の、在りし日の姿を求めたのかもしれない。ここは半兵衛が生前、住み暮らしていた場所だ。葬儀の行われている屋敷よりも庵にいることの方が多かった。「一人でいる方が落ち着ける性質なんだ」と言っていたが、おそらく持病の肺患いが他人に移ることを危惧したのであろう。
 ここに来れば会える。
 いつもどおり笑顔で出迎えてくれる気がしていた。
 だが庵の明かりは消えていて、どの部屋を覗いても半兵衛の姿はなかった。それなのに生活していた面影ばかりが残っている。きっと最期の時まで豊臣の為に身を削っていたに違いない。書机に開かれたままの書、硯に置かれた筆、石の並べられた碁盤――何もかもが時を止めて動かぬままだった。
 静けさゆえに耳に付く雨音が耳に沁みて、耐え切れず庵の外に出た。来た道を辿り、山頂の本陣を通過して門を抜けようとして、ふと背後を振り返り――
 途端、目に入った光景に身動きが取れなくなってしまった。
 雨に降られ、重々しく吊り並べられた九枚笹の陣幕。それは物言わぬ庵の道具たちと同じく、あまりにも変わらぬ常の本陣であった。
 三成はそこで唐突に理解した。
 半兵衛が死んでも世の中は何も変わらない、無情に時は流れゆくものなのだと。
「お前さんはいつまで子供でいるつもりだ」
 争いの要因となった官兵衛の言が脳裏に過ぎる。体調が優れないと言って参列を辞退した刑部を引っ張り出しに行こうとした矢先、渋い顔で呼び止められた。
「人は変わる。人は死ぬ。永遠を生きる者なんざいない。だからこそ成長する。刑部だってそうだ。いつまでもお前さんの隣にいるわけじゃない」
 いつか消える。おそらく三成よりも早くに。半兵衛もそうだった。秀吉だって先に逝く。もちろん小生も例外じゃない。だから独りに慣れておけ――もう、これ以上刑部を庇ってやるな。
 嫌な男だと思った。昔から説教臭くて気に食わなかった。何故、こんな時に知らしめようとするのか、不治の病で死んだ半兵衛の葬儀の席だ。何も今でなくてもいいだろうと、荒れ狂う感情のままに目についた花瓶を投げつけて、退けられたので顔面を蹴りつけた。追い討ちを掛けようとしたところを、どこぞの将に止められ、その将は殴り倒したがすぐさま体勢を立て直した官兵衛に捕らえられて――家康が仲裁に現れたのは、その直後だ。
 見たくない顔だった。せめて今日だけは会わずにおれたら、と思っていた。「三河殿に謀反の疑いあり」という噂は三成の耳にも届いている。そもそも噂になる以前、徳川が豊臣の傘下に入った直後からその可能性は示唆されていた。
 半兵衛が言っていたのだ。
「家康くんは将来、秀吉の敵になるだろうね」
 ならば何故、傘下に加えたのかと三成は問うた。
「枷をつける術を知っているからさ。身体を縛するのではなく、心を繋ぎとめる術を」
 そう言って半兵衛はゆるりと笑った。
 美しくも恐ろしい智謀に長けた軍師の顔で。
「君が枷になるんだ」
 豊臣の為に生きた人は、その目に冷酷な光を宿して命じた。
「家康くんが裏切らないよう、情という名の鎖で繋ぎ止めてくれ」
 三成はその言葉にしっかと頷いた。半兵衛が示すままに毎日、家康の元へと足繁く通った。そうしているうちに自然と打ち解けた。半兵衛の命がなくとも、傍にいて心地よいと思えるほどに――騙しているのだと、罪悪感を抱くほどに。
「三成よ。絆されるな」
 いつだったか、刑部が警告を寄越した。
「軍師殿の術は諸刃の刀。深みに嵌れば、いつしか己に返ろうぞ」
 その時は一笑に伏した言葉であったが今ならば身を切るほどによく分かる。三成はいつしか家康に信を寄せてしまっていた。
 謀反の噂していた将たちを思わず殴り倒したことでそのことに気付き、数日間心を悩ませた後、再び刑部に相談を持ちかけたのが前夜のことであった。
「家康は裏切ると思うか?」
「そうさなぁ……月にでも問えばよかろ」
 刑部は窓枠に肘をつき、夜空に浮かぶ細い三日月を眺めながら口元を歪めていた。
「貴様が問え。そして私に教えろ」
 三成はしばし月を眺めて詰問した。刑部は昔から回りくどい言い方を好む。きっと何かを比喩して月になぞらえたのだ。
 予測は間違っていなかったらしい。刑部は「ヒヒッ」と引き攣った笑い声を立ててから独白のようにのたまった。
「月は形を変える。人の心もまた然り。軍師殿は見事な人心の繰り手であったな」
「半兵衛さま」
 項垂れた三成の前に、ひらりひらりと指先を泳がせて刑部は続けた。
「そう、半兵衛さまは残し逝かれた。我にも、ヌシにも大役を」
「なんだ? 私は聞いていないぞ」
 三成は寝耳に水を垂らされたように顔を跳ね上げた。問い返しながら、思い返してみたが思い当たる節はない。半兵衛は自身が他界した後も豊臣が滞りなく在るように、と万事処理して旅立った。完遂されていない策は残されていないはずだった。
 されども刑部は悪巧みをしている時の表情を浮かべて、
「人の心は明瞭ならざるものゆえな。ヌシが加わるには、ちぃとばかし早い、ハヤイ」
 痛烈愉快、と言わんばかりに笑うものだから、ムッとして強く問い質したのだが。
「黒白を振るうは人の采。蟲惑の一つで陽は落ちる」
 謎掛けのように告げられた言葉の意味をわからぬほどに子供ではない。ゆえに三成は聞かずにおいた方がよかった、と少しばかり後悔している。



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