暗い、穴倉であった。 家康は岩壁に手をついてソロリと進んだ。足元がおぼつかず目も見えない。ゴリゴリと、官兵衛が引きずる鉄球の音だけが頼りだ。 「か、官兵衛、すまんが、もう少し、歩を緩めて、くれんか」 必死についてきたが、これはどうもついていけそうにない。家康は肩で息をしながら、膝に手をつき足を止めた。 すっかり引き離されてしまったようだ。遠くから官兵衛の声が聞こえてくる。 「もう少しだ。踏ん張れ」 そう聞こえた後に鉄球を引きずる音が再開された。足を止めてくれる気はないらしい。 「……を、労わる、気は、ないのか」 ほとんど聞き取れぬ声で呟き、思わずその場に座り込みそうになった。壁に背を当てて額に浮いた汗を拭う。ゴツゴツとした岩肌が骨身に沁みる。きっとここで腰を下ろせば二度と先へは進めまい。 フワリと冷えた空気が流れた。風の流れを読むなど久しく行っていないが、まだ勘は鈍っていない。辿れば外へと戻れそうだ。 何も見えぬ闇の中で家康は歩み来た道を振り返った。 そうして、ここに辿り着くまでに出会った者たちの顔を思い出した。 「……進もう」 誰に聞かせるでもなく発して、拳をぐっと握り締める。 膝が笑う、腰が痛い、夜目も利かぬ、息がつらい。一歩一歩、前に進む度に己の身体の具合を思い知らされる。 けれど、これは証なのだ。己が得て、道すがらに再会した彼らが失った、かけがえのない、泰平の証。 歯を食いしばり、ゼェゼェと息を継ぎ、進んだ先にようやく明かりが見えてきた。人が住んでいそうな気配がある。 刳り貫かれた岩壁に赤い布で縁取られた御簾が掛かっていて、その両脇に煌々と燃える松明があった。 「ヒヒッ、よう来た、よう来た」 カサカサに乾いた声が御簾の奥から聞こえた。 「……刑部」 家康は複雑な心境でその声を受け止めた。 「お前に聞きたいことがある」 問う声音は自然と硬くなった。 あの頃、全てが終わった後に刑部が行っていたことを知った。真実はもはや確かめようもなかったが――今なら聞けるだろうと、さらに言葉を連ねようとして、 「済んだ過去を混ぜっ返すつもりか?」 低い声音が遮った。先を行っていた官兵衛の声だった。 見れば、松明の脇、御簾の影に溶け込むようにして鉄球の上に座っている。 「黙れ、黒田。何ゆえヌシがしゃしゃり出る」 「権現がお前さんのしでかしたことを知ってるってんなら、小生がしたことも知ってるってこったろう。罪を擦り付けられるのはゴメンだ」 「なんと。枷が外れた途端に生意気な口を利くものよ」 「自分が外してやったみたく言うな。それに、言うならちゃんと外してから言え」 刑部は御簾の向こうに、官兵衛も暗がりにいる為にどんな表情をしているのか見てとれない。けれど、彼らの声音はいつか聞いた懐かしい声音と同じであった。 ふと、釣り針を揺らす友の後姿が脳裏に過ぎる。 彼は笑っていた。その手に碇槍はなかった。官兵衛は片腕を失くして半分だけ自由になり、刑部は御簾の奥から出てこない。 武器を下ろし、争う力を失った彼ら。 もはや十分だろうと家康は思った。 「聞かぬことにする。済んだ過去だ」 言って、積年の思いを振り払った。 声音は決して晴れ晴れしいものではなかったけれど。 会わねばならぬ。ずっとそう思ってきた。 一日たりとも忘れたことはない、とは到底言えぬが、それでも今まで覚え続けてきた。いや、忘れたくても忘れられなかった、と言うべきか。忘れたかった、が本音かもしれない。 そして、そんな風に思ってしまう度に己の弱さを見せ付けられてきた。 この道を選んだことを後悔しているのだろうか? 何度も自分に問うた。導き出される答えはいつも「間違っていない」だ。しかし、いつまで経っても心は晴れない。 自問自答を繰り返すにつれて、本心で答えているのか、自らに言い聞かせているのか、わからなくなった。 ゆえに会いたいと願った。会えば真の答えが見つかると思った。長く、長く、切に願ってきた。 泰平の世を求めた時よりも、強く――求めた姿が前にある。 「三成」 声になっていなかったかもしれない。ビュウ、と強く吹きつけた風に流されて、きっと本人には届かなかっただろう。 されども三成は細い白樺の木から背を離して、スクリと立ち上がった。少しだけ驚いた顔をしてガサリガサリと、足元を包む金色のススキを踏み分けて近付いてくる。 その左手には刀があった。家康も右手に槍を手にしていた。洞窟の中で所望した物だ。三成は家康が来るのを待っていると聞いた。だから家康は武器を所望したのだ。 ――対等に、全ての力を以って戦う為に。 ユラリ、と三成の身体が傾いた。唇が動いたように見えたが言葉はなかった。家康も無言で槍を構えた。 この場に不似合いな優しい温度の風が、ザワザワとススキの穂を揺らす。 一際強く、ザワリと鳴って――銀糸が胸元で踊った。 一撃は耐えた。掌がじんと痺れる。二つ目でキン、と鋼の音がして槍が折れた。 鋭い眼光が瞳を穿つ。 ――ああ、そうか。 家康は幼子のような腑抜けた顔で理解した。 そうか、そうだ。きっと、これを望んでいた。己が殺した三成の手で殺される。命に見合う償いは命だけだ。 しかし自ら死ぬことはできない。失った命を無駄にせぬよう、泰平の世を治めなければならない。負けることは許されない。己が歩んできた道は一人で作った道じゃない。自ら首を差し出せば彼らの道も否定することになってしまう。 たとえどんな身になろうとも戦って果てねばならぬ。 だから、家康は両手に槍を握った。 老いた拳では、一撃さえも受けきれぬから。 「ガハッ……!」 胴に鈍い痛みが走った。視界が滲んで目が眩む。堪らず家康は膝をついた。 影が被さる。具足が見える。頭上でカチリと鍔鳴りが鳴った。槍は既に手の内にない。 家康は俯いたまま、無意識のうちに口元を緩ませていた。生まれてこのかた70年ほど経つが、今まで一度も経験したことのない身の軽さだ。背負っていたものがそれだけ重かったということなのだろう。 ようやく手放せた、だからこそ余計に今まで背負えたことに誇りを持つ。 誇りを持ったまま、消えてゆける。 目を閉じて待った。どれほどの時間が経ったか。降り注がぬ刃を不審に思い、家康はゆっくりと顔を上げた。 「……三成?」 見上げた顔は逆光で見えない。いつの間にか日が傾いていて、紅い光が三成の背後に見えた。 後光のようだと思いながら目を細めた。稲穂の茂る音に合わせて銀色の髪がサラリと揺れる。 「酷い顔だな」 ポツリ、と声が降った。 「情けない。もっと堂々としていろ」 一切の容赦も感じられぬ厳しい声音であった。 「家康。貴様は天下人なのだろう」 静かに告げられた言葉が染み渡る。 なんと手厳しい労いだろうか。 三成の放った一言は磨耗した家康の心の芯を優しく穿ち、皺に塗れた両眼からホロリと涙を零させた。 終. >>おまけ back/top/novel |