土の匂いを孕んだ風が鼻先を掠める。うっすらと目を開けると青々と茂る葉の間からキラキラと輝く木漏れ日が見えた。むき出しの腕に夏草が当たってくすぐったい。家康は何度か瞬きを繰り返して身を起こした。 立ち上がった家康が見たのは一面に広がる草原だった。様々な形の木がポツリポツリと散らばっている。よく目を凝らせばそれぞれの木の下に人の姿があった。一番近くの、低く木の下にいる人物が手を振っている。 懐かしい顔だった。家康は笑みを湛えて彼に近付いた。 「久しぶりだなぁ、家康」 「ああ、久しぶりだ」 「元気そうじゃあねぇか」 肩を叩き、かっかっ、と豪快に笑う彼と2・3言、言葉を交わして別れた。これから釣りに向かうらしい。竿を手にした彼の姿はとても身軽だった。 次に見えたのは目も眩むような紅葉だった。 「親方さまぁぁぁ!」 「幸村ぁぁぁぁ!!」 「あぁ、悪いね。今取り込んでるから、また後で来てもらえない?」 殴りあう師弟は家康の来訪に気づいていないようだった。紅葉の細い枝の先に爪先をつけて、膝に肘をついた忍びが、ひょいと肩を竦めて応対した。 「わかった。そうしよう」 苦笑して立ち去る家康の背に少しばかりの間を置いて声が掛かった。 「ご苦労さん」 まるで我慢比べの勝負に負けたような、忍びらしい労いの言葉だった。 行く先々に様々な者がいた。皆、笑顔であった。 手を振り挨拶を交わしつつ家康は更に歩いた。急な坂に差し掛かって少し息が苦しい。 一度その場に立ち止まり、ゆったりと雲の流れる澄み渡った青空を見上げていたら、 「おお、家康どん。そげに息を切らして、どげんしたとね?」 斜め上から声が掛かった。見上げると白髭を蓄えた快活な老人が、巨木の太い枝と枝に網を張って腰掛けている。 「身体がなまってしまったようでな」 「そういう時はコレよコレ!」 灰色の瓶がポン、と投げ落とされた。家康は慌てて両手を差し出して受け止めようとした。けれど支えきれずに両手の間から滑り落ちて、バリン、と盛大に割れてしまう。 「す、すまん」 「なんの、なんの。構うこっちゃあない」 慌てる家康の前に、今度は老人自身がドスン、と降ってきた。ガハハ、と剛毅に笑い「まぁ一献」と新たに取り出した盃を押し付けてくる。 家康は勧められるがままに受け取り、喉が渇いていたこともあってか、グイ、と勢いよく盃を傾けた。 「ゴホッ、これは……!?」 「酒じゃ!」 ニッカリと白い歯を見せて老人は言う。 「家康どんはようやり申した。ここでくらい、肩の力を抜いてもバチは当たらんとね」 家康は曖昧な笑みを浮かべながらも「ありがとう」と、礼を述べてその場を後にした。 「……これは、どういうことだ?」 「決まっている。日輪の光を余すことなく浴びるためよ」 かの智将は枝葉を全て落とした木の下にあった。だらりと寝転がり、さんさんと降り注ぐ陽光に目を細めている。 家康はふと脳裏に過ぎった疑問をぶつけてみることにした。 「お前は何故そんなに若々しくいられるんだ?」 「我は心に迷いがない」 智将はちらりと目線を上げて、 「貴様も見習うといい」 高みから見下ろすように告げられた答えに、家康は苦笑するしかなかった。 「官兵衛……ここにまでも道連れか」 挨拶もそっちのけで思わず零れた。大きな鉄球に肩肘をついて書を読む男が面倒そうに顔を上げる。 「誰のせいだ、誰の」 「ワシのせいか?」 「そうだ。お前さんが中途半端に外したせいだろう」 示すように持ち上げられた官兵衛の片腕は、肘の辺りで途切れていた。 「もう少しマシな外し方はなかったのか?」 「どうやっても外れなかったんだ」 「鍵は」 「鍵があったのか?」 「……お前さんに奪われたって聞いてたんだがな」 官兵衛は苦々しげに言い、書を置いて立ち上がった。 「行くぞ、権現。ついでに案内してやる」 「行くってどこにだ?」 「決まってるだろう。刑部と三成のところにだ」 当然のように言われて家康は顔を顰めた。 「ワシは……会えん。会わす顔がない」 官兵衛はしばし家康の顔を眺めて至極面倒そうにハァ、とため息を吐いた。 「それだと小生が困る。お前さんが鍵を持っていないと言ってくれんと、またはぐらかされる」 不便でしょうがない、と先の失せた片手を振られて、家康は渋々、官兵衛の後について行くことにした。 next/top/novel |