鬼の握り飯



 毛利元就は一見すると小食だ。
 細い体つきに秀でた悟性。加えて、人間味の感じられぬ冷徹な采配が人でないもの、霞を食って生きる者であるかのように思わせるのやも知れぬ。
 毛利自身、それほど食に拘らぬ男である。膳に上った分だけを残さず食い、それ以上に欲することはない。
 毛利は十分に満たされている。
 満たされていると思い込んでいる。
 腹の満たされ具合というのは己のみが感じ取れる感覚だ。千人いれば、腹の満たされ具合も千通りある。
 毛利はその感覚が随分と鈍かった。
 空腹は腹が鳴るので感じ取れるが、腹の三分目ほどでも食えば腹は鳴らなくなる。毛利は三分目だとか五分目という感覚すら認識していない。「食った」は「食った」。食った後に胃の中を再認する必要もあるまい。大食せずとも頭は回るし、身体も動く。わざわざ女中を呼びつけて、食事の量を細かく命ずるのも面倒だ。きっと彼女らは毛利の姿形から食の量を慮り、粗相のないよう恐れ戦きながら仕度しているのだろう。「足らぬ」と言えば、今までも足らなかったのかと、これまた無駄に恐れ戦き、自ずと心の臓を止まらせるやも知れぬ。
 そうなれば更に面倒が増える。台所を預かる女中たちは城勤めなだけあって、皆、それなりの身分を持っている。家臣らの娘、妻――それを震え上がらせるのは毛利家によろしくない。
 ゆえに毛利は満腹を知らず、過ごしてきた。

     ***

 男は大きな手をしていた。
「やるよ」
 風呂敷に包まれたそれは大きな三角型をしていた。「和議の手土産だ」と差し出した男の顔は苦々しく、背けられている。
「なんだ、これは」
「鬼の握り飯だ」
 男はその場で毛利に「食え」と命じた。
「毒でも盛ったか?」
「いいから食えって」
 訝しげに問うた毛利を、男は呆れた様子で眺めた。見下ろしてくる隻眼が小心者だと詰っているようで気に食わない。
 毛利はその場で大きな、それは大きな握り飯を平らげた。

 その後、和議は穏便に成された。

     ***

 紅葉の色が変わり始める季節に、瀬戸海にて幾度目かの海戦が行われた。相手は相も変わらぬ長曾我部だ。
 戦の原因はもう忘れた。忘れても支障はあるまい。何であろうとも長曾我部が悪い。戦を仕掛けるのはいつも長曾我部だ。
 少なくとも毛利はそう思い込んでいる。
 だって毛利が望むのは中国の安寧だ。領土拡大の野心はない。長曾我部と争うのは、長曾我部が瀬戸海を荒らすからだ。我が物顔で海原を駆けるせいだ。おとなしく四国に収まっておればよいものを、あの鬼は事あるごとに海へと出たがる。ひょっとすると瀬戸海を挟んだ先にある中国を揺らがそうと企んでおるのやもしれぬ。ならば事前に排さねばならぬ。
 だが秋の収穫を間近に控えた今の季節、これ以上、戦を長引かせるのは得策でない。領地に戻って稲を刈り、冬支度を始めねば民が飢える。地が荒れる。毛利家が揺らぐ。
 引かねばならぬ。ならば停戦、形ばかりの和議を申し入れるべきだ。己が感情に引きずられてはならぬ。折れて得るものもある。それに、形ばかりだ。心底から伏するのではない。
 されども、毛利は腹を据えかねている。
 青白い顔で瀬戸海に駐留する船の船室に篭り、戦を望む己を宥めようとしては筆を噛む。和議申し入れの書状は、書机に向かった3日前から白紙のままだ。
 人払いを命じてあるので、篭った毛利に声は掛からぬ。
 閉じ切った部屋は一切の干渉を拒んでいた。
 日輪の光も差し込まず、昼も夜も判別がつかない。
 不安定に瞬き始めた行灯の油を注ぎ足すのは幾度目か。
 油を注ぎ、書机の前に座り直した瞬間、くらりと目の前が霞んだ気がした。書机に肘をつき、額を掌で支える。額はべっとりとしていて気持ちが悪い。閉め切っていても船上だ。潮に満ちた空気が身体に纏わりつく。
 ――ああ、安芸へと戻りたい。
 ふと、気だるい身体の奥底から郷愁が湧いて出た。
 ほんの一瞬、さりとて鮮明に、乱世の謀将・毛利元就は失せた。
 飯炊きの煙が上がる、金の稲穂に満ちた安芸の情景に呑まれて。

 ちょうどその時、ドン、と船が揺れた。
 鯨にでもぶつかったか、と思うほどの大揺れだ。
 毛利はすぐさま立ち上がり、室外へと顔を覗かせた。
「何事か」
 問うたが、問うまでもなかったので、二の句は噤んだ。
 見ればわかる。足元に黒鉄の槍が刺さっている。外から、それも船外から撃ち込まれたのであろう。屋根が破れて、頭上から日輪の光が降り注いでいた。
 誰の仕業か――鬼か。
 床に突き刺さった黒鉄の槍に見覚えのある風呂敷が括りつけられている。いつかの和議で長曾我部が携えていたものだ。
 ならば、攻めてきたか。
 しかし鬨の声が聞こえてこない。次の砲撃も訪れない。
「通りすがりの挨拶か」
 無作法な挨拶である。腹に溜まった鬱憤が迸り、乱暴に風呂敷を叩き落としたら中身が転げ出た。
 思わず目が留まる。
 笹の葉に包まれた大きな三角――鬼の握り飯だ。
 毛利は両眼を細めて、コクリと小さく喉を鳴らした。
 兎角、大きな握り飯だ。されど米粒は潰れていなかった。古くからの知人に送ってもらったのだという紀州の梅干が入っていた。程よく舌に馴染む塩は船上で干したものだという。
 鬼にしか作れぬ、大きな、大きな握り飯。
「……穀物に罪はあるまい」
 小さく呟き、両手に余る鬼の握り飯を拾い上げ、何事もなかったかのように部屋へと戻る。
 篭る毛利の姿を見る者はいない。

   ***

 数日後、幾度目かの停戦が成った。
 和議の席に参じた毛利の振る舞いは、敵だけでなく味方にさえも「気味が悪い」と噂されるほど穏やかであった。
「次は昆布にせよ」
 言って、折り畳んだ風呂敷をすい、と床の上に滑らせた毛利の言が何を含んでいるのか、誰も彼もが首を捻る。
 唯一、鬼だけがカラリと笑い、訳知り顔で心得た。


  了.

top/novel