シベリアンハスキーが捨てられていた。
大きな図体で、白と黒のもふもふに覆われていて、怖い目をしていて
でも、どこか引き寄せられるような目だった。
どこか厳かだった。
わたしに似ていると思った。
それから一緒に暮らしが始まった。
その犬のための寝床、皿、食事、首輪を買った。
何もわからなかったので、鳥のももの肉塊を、皿に出してやった。
その犬は、わたしをふっと一瞥すると、それをむしゃむしゃ食べた。
犬歯が見えた。恐ろしく、白く、洗練されていた。
寝床は使われなかった。
その犬は、シングルベッドに、いそいそと入ってきて、申し訳なさそうにその大きな図体を窄めながら、わたしと一緒に眠った。
わたしはその犬の首をぎゅっとしてやって、深く抱きしめた。
この子は、
幸せなのだろうか。
この生活を、望んでいたのだろうか。
「何もわからなくてごめんね」
ぼそっと謝ったが、わたしは、それが都合がいいと思っていた。
言葉が通じないから、わからなくて当然だけれど、人間っていうのは、言葉が通じるからタチが悪い。わからなくて当然が通用しないから。
「はっきり喋れ」
大きな図体で、肌は白く、髪は黒く、
怖い目をしていて
おそろしい目だと言われた。
わたしが、言われた言葉。
手の感触が曖昧なまま、そう言われた自分と、それを放った相手が信じられなくて
書類を落としそうになったけれど、
ああ、助けて、助けて、シベリアンハスキー。
こいつを噛み殺して!
鳥のもも肉をヤるときみたいに、やっちゃってよ!
めちゃくちゃにしてよ!
わたしの人生!
(〇さんの上司、〇さんと付き合ってたんでしょ?)
(でも、今は▲さんと付き合ってるって)
(うわ−。社内荒らしだ、サイアク。○さんカワイソー。)
(でも、上司の方今年の春から異動になるから、あとちょっとの辛抱だよね)
「わたし、シベリアンハスキー飼ってるんだ」
「え」
「大きな図体で、白と黒のもふもふに覆われていて、怖い目をしていて。でも、どこか引き寄せられるような目をしているの。」
「そうなんだ……。」
「あのさ、見にこない?」
「美味しい鶏肉の丸焼きも作るから。」
手は繋がない。
何百回も見たスーツ姿に、髪型に、顔つきに、でも、顔はちょっと疲れ切ってうんざりしてて、でも、
どこか期待している。
「遠いところに行っちゃうんでしょ。東京から北海道。最後にパーティーしなくちゃ……」
ガチャ
わたしのゾーンに彼を招き入れる。
そこにはシベリアンハスキーがいる。
大きな図体で、白と黒のもふもふに覆われていて、怖い目をしていて
でも、どこか引き寄せられるような目だった。
どこか厳かだった。
わたしに似ていると思った。
わたしを守ってくれる、大切な子。
その子は暗闇の中、青い目をきらりと輝かせて、
わたしはそれを合図に、家賃5.5万円の部屋のドアを閉めた。
バタン
バウバウ!
ギャーー!!!
バカ
この男バカだから
別の女と付き合ってるのに、元カノの家に来る。
だから、こういう目に遭うんだよ。
わたしはじっと目を瞑って、音に集中していた。
いのちを脅かされたときに出す声を、初めて聞いた。
いのちを刈り取るものの咆哮も、初めて聞いた。
わたしは中学生のときに、ニコニコ動画で踊り手として活動していたことを思い出していた。
気づいたらわたしは狭い狭い玄関で気絶しており、はっとして、慌ててスマホの画面をつけると5時間経っていた。
急いで部屋の電気をつけると、
そこには何もいなかった。
骨や、肉や、血すらもなく。服もなく。
人も、犬もいなかった。
「ハスキー……」
わたしは膝から崩れ落ちると、わんわん泣いた。
どうしよう、ハスキーがいなくなっちゃった。
「わたしの」になってた、シベリアンハスキーがいなくなっちゃった。
どうしよう。どうしよう。
あんなやつなんてどうでもよかった。
なのに、わたしが、わたしのせいだ。
わたしのせいで、シベリアンハスキーがいなくなっちゃった。
わたしはわんわんわんわん泣いて、
はじめて、犬になりたいと思った。
そしたらきっと耳が良くなって、今きっとどこかで鳴いているだろうシベリアンハスキーの声が聞こえるし、わかるし、
今まで、シベリアンハスキーの気持ちも聞いてあげられたし、
でも、わたし、
しょうもなくて最低だから
「わたしと一緒にいて楽しかった?」
って聞いてしまうんだろう。
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