――ぱちん、と乾いた音がした。

それが頬を叩かれた音だと気付くのに、暫くかかった。呆けていたわけじゃない。ただ、いつも穏やかな彼女からは到底想像出来ない乱暴に、僕の頬に当てられた両手が彼女のものだと認識出来なかっただけ。でもやはり彼女は優しい。人の事を叩きながら、泣いていた。涙を流して、僕の名前を呼んだ。

「何でそんな事言うの」

彼女なりに、精一杯怒りを込めたんだろう。だけど震えながら紡がれたその言葉に威圧感は何も感じられない。むしろ可愛いな、などと思いながら顔を真っ赤に泣き腫らした彼女を見下ろしていたりする。そんな邪念が伝わったのか、彼女は更に唇を尖らせる。

「…聞いてる?」
「聞いてるよ。でも姫の言うことは聞けない」

予想通り、見る見るうちに彼女の眉が釣り上がる。けれど今度は張り手はやって来なかった。何かを言いかけたらしい口はへの字になって、耐えるように唇を噛む。

…そんな表情、させたくなかったんだけど。

泣きたいのを必死で我慢するときの顔。全然我慢なんか出来てなくて、ぼろぼろ泣いちゃてるのに、それでも意地でも泣いてないって言い張る時の顔。少しでも口を開けば嗚咽が漏れるから、ぎゅっとへの字に口を結んで、ふるふる肩を震わせて立っている時の顔。強情で素直じゃない、そんなところが可愛いのだけど、この表情だけは苦手だった。どうしていいのか、分からなくなるから。

僕は、間違ったことを言ったつもりはなかった。「近藤さんの為なら死ねる」と、そう言っただけ。それは心の底からいつも思ってたことだし、近藤さんの役に立つために強くなった。人を斬った。近藤さんがそう言うのなら、仲間の誰かを斬ることだってできる。犬死にはしたくないけれど、近藤さんの為になるのなら、死ぬことも辞さないかもしれない。それくらいに、僕にとって近藤さんという存在は大きい。

だから、自分の命を誰かの為に、例えば自分の為に使うとか、彼女に言われるまで考えたこともなかった。考えたことがないから、きっと大したことじゃないだろうけど。

「そんな顔しないでよ。まるで僕がいじめてるみたいじゃない」
「……」
「…ねぇ、」
「ばか!あほ総司!」

今度は拳で殴られた。殴ると言っても本気じゃなくて、胸の辺りに彼女の重みを感じただけ。そのまま着物の襟を握ったまま、彼女は項垂れる。迷子になった子供が、見つけた親の袂を必死で握り締めるみたいに、離すもんかとぎゅうぎゅうと引っ張られる。まるで僕が何処かに行くのを阻止するみたいに。
そう考えて、ふと思い付いたことがある。

「どうして今日はそんなに食い付くの?」

思えば、こんな風に僕に泣き顔を見せるなんて彼女らしくなかった。いつもの彼女なら、僕を叩いて殴ったら脱兎のごとく逃げ出して、押入れの中で一人でこっそり泣いてるはずだ。他人に泣き顔を見られるのを嫌って、覗きに行こうものならそれこそ親の仇とばかりに殴りかかられる。
それが今は、顔を覆うことよりも僕を捕まえることが大事らしいのだ。彼女がこんな奇行に走る理由、思い当たる節が無いわけでもない。

「誰から聞いたの?」
「……」
「山崎君?…それとも千鶴ちゃん?だめだなぁ、誰かに言ったら斬っちゃうよって言ったのに」
「ち、ちが…!たまたま話してるのが聞こえちゃっただけ!」
「立ち聞き、したんだ」
「…っ……」

しまった、と持ち上げた顔を慌てて反らしていた。
つまり彼女は、僕が労咳だって知ってしまったらしい。

合点が行った。昔から、自分より人の事をよく心配する娘だった。怪我とか病気とかすると、もっと自分を大切にしろだとか叱責して過保護なくらいに世話を焼く。だからきっと僕が死病に罹ってるって聞いて慌てて飛んできたんだろう。こうなるって分かってたから、だから彼女に知らせたくなかったのもある。絶対に、心配しすぎるだろうから。付き合いが長いから、手に取るように彼女の行動が読める。頑固で絶対に自分を曲げない。だから女の子なのに僕らに交じって剣を習って、そのまま京まで付いて来て、今じゃ刀を腰に差して往来を歩いてる。剣の腕だって大して強くなかったのに、肩を並べて立ちたいからって手が豆だらけになるまで練習したり。結果、まだ僕よりは弱いけどそこらの浪人よりは断然強くなった。負けず嫌いで努力家で、そのくせ泣き虫で――優しい。

そんな彼女が僕に言った。「休んだらどうか」って。少しは自分の為に生きたら、って。

「何度言われたって答えは変わらないよ。僕は近藤さんの剣になる。…それが、この新選組で僕が生きられる唯一の術だから」
「…近藤さんが、そう言ったの?」
「違うよ。でも僕には他に何もない」
「そんなことない!」

急に大きな声で叫んだと思ったら、そんなことないよ、と消え入りそうな声で彼女は言う。
昔は並んでいたはずだけど、いつの間にか僕は彼女の背を遠く追い抜いてしまって、今は小さく見える彼女の姿が、目に焼き付いて離れない。き、と射抜くように僕を見つめ返す視線を、真っ直ぐに捉えてしまう。

「近藤さんは総司に死んでほしいなんて思ってない。総司だって分かってるでしょ」
「…だから、何?そんなことで僕が考えを変えるとでも?」
「総司は…一番大事な近藤さんの考えを蔑ろにするの?」
「っ…」

激情のままに振り上げた手。これが八つ当たりなことくらい、分かってる。振り上げた手を、ぎゅっと目を閉じて痛みに耐えようとしてる姫の頭に乗せた。

「……総司?」
「黙ってて。自分でもよく分からないんだから」

彼女の頭をくしゃくしゃと撫でる、無意味な行為を続ける。彼女は僕の言うとおり、黙ってされるがままで居てくれた。その度に、柔らかな猫っ毛が指先に絡みついてはすり抜けていく。
一体僕はどうすればよかったんだろう。何度振り返ってみたところで自分自身の行動に答えなんて出るわけもなく、ましてや自分以外の誰かが与えてくれるわけもない。何が正解だったのか、どこでどんな選択をすれば姫を泣かせずに済んだのか。これっぽっちも検討が付かない。

「誰だって生きるのは辛いよ。何を選ぶのか、何を捨てるのか、自分で決めて自分で責任を負わなきゃいけないから」

計ったように、僕の考えを読むように、彼女は口を開いた。

「それでも一人じゃ抱えきれないくらいに重くて選べないなら、」

思わず、姫の顔を見た。俯いたままの表情を窺い知ることは出来なかったけど、握りしめた拳は震えていた。

「自分のために生きれないんだったら、私の為に生きてよ…」

その手を取ってしまえば、僕はまた彼女の優しさに甘えることになる。彼女を「こちら側」に引きずり込むことになるだろう。そうしたらもう後戻りは出来ない。修羅の道は、歩き始めたら最後立ち止まることすら許されない。それを彼女に課すのは酷な話だ。彼女にはまだいくらでも道はあって、僕とは違う道を歩くことだってできる。今ならまだ、引き返せる。
けれど僕は自分の心を満たすために、選んだ。

「姫は僕のために生きてくれる?」
「…総司は優しいね」

泣きながら笑う温もりを、離すまいと抱き締めた。







それから随分と月日が経った。
時は明治に変わったと、風の噂で聞いた。新選組はもう無い。誠の旗を掲げていた土方さんや一くんがその後どうなったのか、別れたきりの左之さんや新八さんがどうなったのか、僕らには何も分からない。残りの時間を静かに過ごすために、僕と姫は山の奥深く、人も滅多に立ち入らぬような森の中で二人で暮らしていた。世事から隔絶されたこの場所で、ただ四季の移り変わりだけが年輪を刻む。山の空気が労咳に効いたのか、僕の咳も軽くなっていた。羅刹の力も、使わなければ身を削ることも無い。本当に、静かな時が流れていく。

膝の上で眠る彼女を見下ろして、僕は思わずふっと笑みを零した。
獣のように全身強張らせて生きてきた彼女が、こんな無防備に寝顔を晒すようになるなんて。「あの頃」の僕が聞いたら「ありえない」と鼻で笑いそうだ。こんな穏やかに生きる日が来るとは夢にも思ってなかっただろうから。実際、夢に見る余裕すら無かったはずだ。その時、その時に精一杯で、そんな生き方だから、きっと長生きなんてできるはずないって思っていた。

姫には、もっと女の子らしい生き方があったかもしれない。刀なんか握らないで、普通に生きて、どこかの平凡な男と夫婦になって…そしたら、こんなに傷だらけで、命を削ったりなんてしなかっただろう。僕を守るために羅刹になる必要なんて無かった。
それでも、きっと僕が何を言ったところで彼女は聞く耳持たないだろう。強情だから、一度決めたら絶対に最後までやり通す。それまでは何度死にかけたって諦めない。そんな彼女に甘えていたのも僕で、何より僕が、彼女に傍にいて欲しいって思った。

改めて、膝を見下ろす。柔らかい髪が風に揺れてくすぐったい。撫でるとふわりと彼女の匂いが空に舞った。暫くして、彼女が薄ら目を開けて、眠たそうにこちらを見上げる。

「総、司…?」
「ごめん、起こしちゃった」

弱い日差しの温もりに包まれて、気持ちよさそうに彼女は伸びをした。昼間に眠くなるのは相変わらずみたいだけど、太陽が嫌いではなくなったらしい。僕も同じだ。こうして彼女と昼寝するのは心地いい。姫に言ったら「動物の本能だ」などと笑っていたけれど、まぁ大体そんなところだろう。

「あんまり寝てると風邪引くよ」
「総司こそ、温かくしてる?」
「昼寝におあつらえ向きの掛け布団があるからね」

満足したのか寝ぼけているのか、にへらっと緊張感のない顔で姫は寝返りを打つ。猫のような行動に僕も思わず頬が緩んでしまう。

「また寝るの?」
「もうちょっと…」
「だめ」
「けち」
「もう冬だから日が落ちるのも早い。身体冷やすのよくないって、いつも言ってるのは姫だよ」
「むう」

唇を尖らせつつ、目をこすりながら彼女は身体を起こす。ふ、と膝から重みが無くなって、自由を感じると同時に少しだけ寂しくもなる。
ぼう、と宙を見つめて座っている千菜を、僕もじっと眺める。ややあって、その瞳に光が戻ってくる。

「起きた?」
「うん。…そろそろ夕餉の支度しないと」
「僕がやる」
「ううん。私がやる。総司は待ってて」
「じゃあ二人でやろう。その方が早いし、楽しい」

子供のように顔を綻ばせる千菜を追って、僕も台所へと向かう。

一緒に御飯を作って、食べて、寝て、起きたらごろごろして、そんな何もない日々の繰り返し。僕達を縛るものは何もない。
あとどれだけの時間、こんな生活が続くんだろう。考えたところで検討もつかないし、無意味だ。今日明日にでも終わるかもしれないし、何度も四季を巡ることになるかもしれない。けれど僕が生き続ける限り、僕の目に映るこの景色には君がいる。








君のいる景色がいつまでも続きますようにって、願ってるよ。



――――

あとがき。
(13/12/10)
戻る
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -