ふわり、と夢から覚めるのはいつも突然だ。どんな夢を見ていたのかさえ、一瞬で忘れてしまう。何でも思い通りになっていたあの時間がすっと遠ざかっていって、ずしりとのしかかる身体の重さが僕の意識を現実に引き戻した。寝転んだまま手を伸ばしても、何も掴めないままぱたりと無為に落ちてくる。薄っぺらい布団に皺を寄せた僕の腕に、刀は重すぎるようだった。一体僕は夢で何を追い求めていたのか、もう全く覚えていないけど推測するにおそらく刀を握っていたんじゃないかと思う。自分の身体を自分の意思で動かせていた頃を、思い出していたんじゃないかと思う。そんな夢から覚める度に、悔しくて悔しくて己の首を掻っ切ってしまいたいと思ったこともあったけど、今はもう、そんな気さえ起きなくなっていた。ただ漠然と虚しさが心の何処かで声を上げた。
 僕は一体どれほど眠っていたんだろうか。夢というのは覚めるのは突然だけど落ちるのは緩やかにそれとわからぬ間に進んでいくものだ。昼頃から記憶が無いから、きっとそのくらいから寝てしまったんだろう。羅刹となった僕にとって昼は夜のようなものだけど、それにしても随分と寝てばかりいるようになってしまった。たった一組ぽつんと敷かれた布団の上で、それ以外にすることもないから仕方ないとは言え、僕は寝ることが仕事になってしまったらしい。隊務の隙に、縁側の涼しい木陰でだらりと寝転がっていた頃は遠い。もう、昼寝をしても口うるさく文句を言う人は居ない。
 それにしても、今日は一度も目が覚めることなく魘されることもなかったようだ。陽は大分傾いていて、茜の光が畳の上に陰影を作っていた。あぁ、そうか。もうすぐ彼女――お夕さんが来る時間だ。




 お夕さんは、僕がこの千駄ヶ谷の植木屋で療養することになって数日した頃に松本先生が連れてきた人だ。一応、植木屋さんに出入りしていたお婆さんが僕の面倒を見てくれることになっていたんだけど、生憎と僕は普通の人間とは違う。羅刹にとって、昼は夜であり、夜こそが昼だった。「月が太陽に見える」というのは平助の言葉だけど、実際よく言い表していると思う。頼りなく光っていたはずの月は僕ら羅刹にとって太陽で、眩しく光る太陽は忌まわしき存在。そんなわけで、お婆さんが来てくれる昼間、僕はずっと寝て過ごしていることが多い。寝てばかりでも、病人であるから怪しまれることもない。けれど、夜になって僕が起きだした時に誰もいないのは問題だ、と松本先生が言い出した。もし僕が発作を起こした時に、そうでなくとも万が一労咳が悪化した時に、世話をする人間がいるべきだと松本先生は言うのだ。当の松本先生は松本先生で忙しいらしく外に出ていることもあるから、四六時中僕の相手ばかりしていることは出来ない。例のお婆さんに夜まで来てもらうことも出来ないし、何しろ僕が羅刹であると知られてしまっては元も子もない。夜に来てもらうというのは、つまりそういうことだ。羅刹の存在が世に明るみになってはいけない。必然的に、既に羅刹の存在を知っている人間が適役になる。千鶴ちゃんなら、呼べばきっと無理をしてでも来てくれるだろうけど、あの子を呼びたくは無かった。ここに近づけてはいけないと思った。あの子は新選組と共に居なければいけない。より安全な場所に彼女を置いておきたいだろう松本先生は僕の我侭に渋い顔をしたが、あの子に労咳が感染っては困ると言うと納得してくれた。
 しかしそれ以外にあてなど誰一人としていない。求めているのは、口が固く、義理堅く、世話好きで、言われたことだけを忠実にこなし、それ以外のことには首を突っ込まない人。このご時世、そんな人間いくら金を積んだところで探すのは難しかったし、積む程のお金すら持っていないのだから余計に望みは薄い。松本先生も重々承知のようで、眉間に皺を寄せて唸っていた。「何か策は講じよう」と言い残してその日は帰っていった。
 どうせ誰も見つからない。高をくくっていた僕の目の前に、彼女を連れて松本先生が現れたのはちょうど三日過ぎた日の夕時のことだった。

「沖田君、君の世話係を見つけたよ」

 その日も空が泣いているような夕焼け空で、寝起きの僕の視界は紅に染まっていた。長い長い影法師が差し込んでいた。逆光を浴びて立つ松本先生の隣に、一回り小さな影がいる。長い黒髪を首元で緩く結わえた、妙齢の女だった。若い女の出現に、僕は大層煩わしげな目を向けていたと後に松本先生から聞いた。
 松本先生の話では、つい先日、行き倒れているところを偶然拾ったらしい。その話だけできな臭いと睨んだ。こんな偶然があってたまるものか。僕は率直に松本先生に告げた。「騙されているんじゃないですか」って。ちょうど都合よく働いてくれる人を探していて、ちょうど都合よく行く宛もない女が倒れていて。普通だったら疑うところだろう。何か裏があるんじゃないか。こいつの目的は一体何だ、と。しかも僕達はそういう駆け引きのギリギリのところで生活していた。常に間諜は誰だと腹の探り合いをして、疑わしいものがあれば斬り捨てる。敵が多いからしょうがなかった。きっと僕を殺したい人間もたくさん居るんだろう。そんな奴らにとって、今の僕はどう映る?
 女々しく己の命の心配をしたくは無かったけれど、見ず知らずの、しかも女なんかにむざむざ命をくれてやる義理も無い。それにしたって松本先生はどうしてこんな怪しげな女を連れてきたんだ。しかも「仕方なく」ではなくどちらかと言えば誇らしげに。
 呑気なものだと僕の憤りは増していく。その間も、女は一言も喋らなかった。ただじっと、黒くてまあるい瞳をこちらに向けていた。あからさまに不機嫌そうな僕を見て、松本先生はようやくそのえびす顔に苦笑を混じらせた。

「大丈夫、彼女のことは心配要らないよ。この子は、君が思うような子じゃあない」
「どうしてそんなことが言い切れるんですか?」

 適当にあしらっても良かったのだけど、その時の僕は相当虫の居所が悪かったようで、わざわざ松本先生に噛み付いた。言いくるめて帰らせたいと思った。けれどそれも全て、向こうは織り込み済みだったようで。

「目を見れば分かる。……それにな、彼女はどうにも口が聞けないらしいんだ。君のことを、誰かに言いふらしたりは出来ないんだよ」
「喋らなくても、伝えることはできるでしょう?」
「まぁ、それはそうだが……とにかく、後のことはもう指示してあるから、何か困ったことがあったら彼女に言ってみてくれ」

 忙しいのか何なのか、挨拶もそこそこに松本先生は帰って行ってしまった。その様子も気に食わなくて、僕は一層彼女が憎くたらしくて仕方がなくなった。酷いことでも言って傷付ければ、帰ってくれるだろうか。そんなことまで考えていた。

「ねぇ、君さ」

 黙ったままの彼女に、何か言いかけて。そこで僕は、まだ彼女の名前も聞いて居ないことを思い出した。

「名前、なんていうの?」

 返事は無い。そう言えば、唖だって言っていたっけ。それも本当なのか何だか。僕は完全に疑っていた。嘘八百じゃないかって思っていた。ここで何か口にすれば化けの皮が剥がれるのに。でも敵さんも手強いらしい。ふるふると首を横に振るだけで、名前すらも教えてくれなかった。
 ねぇ、とか、ちょっと、と呼べば振り向くから、こちらの声は聞こえているらしかった。馴れ合うつもりは無かったし、初めの一日などは「近づかないで」と言って彼女を部屋から閉め出した。何をしていたか知らないけど朝になる頃には居なくなっていた。何か盗んで行ったんだろうか、と見回したけど刀はそのまま置いてあったからそれ以上確認する気にもならなかった。そうして名前も知らない女は翌日も、翌々日も夕方頃になるとやってきた。
 別に仲良くお話したいわけじゃないけど、名無しの権兵衛のままもどうかと思って、便宜上僕は彼女のことを『お夕さん』と呼ぶことにした。夕日の出る頃にやってくるから、お夕さん。我ながら安直だ。
 名前を付けてみたものの、本人に向かって呼びかけたのはしばらく経ってからだ。何しろ、初日に僕が言ったことを忠実に守っていたお夕さんは、僕が起きている間は、一定の距離を保ったまま話しかけるには遠すぎる場所でじっとこちらを見ているだけだった。僕が寝ている間何をしているかは知らない。けど、掃除とか洗濯とかそういうのは昼間にお婆さんが来てやってくれるし、夜の間に何度も食事を摂るわけでもないから、彼女の仕事はほとんど僕の監視なのだろう。もしかしたら、僕が寝ている間もああしてじっとこっちの様子を伺うだけで居るのかもしれない。借りてきた猫みたいな姿が、容易に想像出来た。
 これは根気比べだと思った。お夕さんと僕と、どちらが先に音を上げるか。一方的な勝負だし、そのくせ僕の方は度々声をかけたりしているからもはや勝負ですら無いのだけど、うんともすんとも言わずに言い付け通りに僕を遠巻きに見守るだけのお夕さんを、どうにかしてあっと言わせたかった。彼女に「負けた」と言わせれば、最後には僕が勝ったと思えるだろうから。さて、いつになったら、彼女はこの息の詰まりそうな生活に音を上げてくれるんだろうか。
 そうは言ったものの、お夕さんは手強かった。唖というのは案外本当のことなのかもしれない。一言も声を発しないし、それからにこりとも笑わなかった。もちろん泣いたりもしないし、それから不満や怒りを見せることもなかった。無感動の無表情、まるで人形のよう……というわけでもなく、どちらかと言えば緊張で顔を強ばらせているような印象を受けた。かと言って慌てふためくわけでもなく、考えは読みづらい。すぐ顔に出る千鶴ちゃんとは正反対だった。
 僕と彼女の無言の攻防戦に決着が着いたのはそれからまた数日が経った時、彼女が来てから既に十日以上過ぎた頃だった。その日の僕は朝からすこぶる調子が悪くて、寝ても覚めても胸の辺りの不快感が取れなかった。食べ物なんて見たくもなくて、全身が鉛のように重たい。こんな日に、お夕さんの相手をしなくちゃいけないなんて。考えただけで憂鬱だった。これまでの間、奇跡的に小康状態が続いていたのだ。これほどまでに体調が悪い様を、彼女は初めて見ることだろう。一体、どんな反応をされるんだろうか。彼女の化けの皮が剥がれて欲しいと思う反面、騒ぎ立てられるのも面倒だと思ってしまう。矛盾を抱えて昼間を過ごし、そうして夕方になれば彼女はやって来る。

「………………」

 一瞥で、僕の具合が悪いこと――少なくとも、機嫌は悪いことを察したらしい。いつも以上に彼女は気を遣っているらしかった。その気遣いすら煩わしいのだけど、嫌味を言う余裕も無い。
 ゲホゲホと咳が止まらない。あぁ、この音はいけない。自分でも、血がいっぱい出るのだと分かった。自覚した時には、両の手が真っ赤になっていた。また、布団を汚してしまった。ボトボト垂れるそれを、上がった息でぼんやりと眺めた。
 しばらく何もせずにそうやって、ふと何かの拍子に顔を上げると、吃驚とした表情のお夕さんと目があった。なんだ、君もそんな顔が出来るんだね。声をかける間もなく、彼女は何処かへと走り去った。逃げ出したのかな、という僕の考えは一瞬で裏切られる。どこから持ってきたのか、山のような布を手に、彼女はすぐに掛け戻ってきた。

「――! ――!」

 だ、い、じょ、う、ぶ、で、す、か。何度も何度も動く口元を見て、お夕さんの言葉は理解出来た。同時に、彼女は本当に声が出ないのだと知った。
 松本先生から、僕にもしものことがあった時の面倒を頼まれていたはずなのに、お夕さんは取り乱してしまってむしろ僕の方が冷静になるくらいだった。ただ、ずっと背中をさすってくれた手だけは温かくて、振りほどく気にはなれなかった。疲れていただけ、かもしれないけど。


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