……暑い。

寝苦しい夜。もう何度目かわからない寝返りを打って、己の熱でぼんやりと温まった布団に顔を押し当ててて冷めやらぬ火照りの不快感に顔を顰めた。夜更けの眠気などとうに何処かへ飛んでいった。目も頭も冴えきっている。いくら横になろうとも最早眠りに落ちる気がしない。寝汗でじっとりと湿った布が、余計に寝返りの頻度を上げ、その度に「寝られなさ」が募る。「暑い」「眠れない」「寝苦しい」そんな言葉が考えまいと思っても次々と浮かんできて、考える度に余計にその言葉通りになる。止めようと思ってもこの暗示は簡単には収まらないらしい。
もう、今日は諦めよう。

「……よし」

夜着を脱ぎ捨てて、目が覚めたら袖を通すつもりだった浴衣を羽織った。帯はこの際、形だけ結べばいいだろう。もうさすがに呑み処も店じまいの頃合いだろう。夜鷹もいい加減客を捕まえて何処ぞに洒落こんでいるはず。こんな夜更けに人の目なんてあるわけがない。よっぽどの飲んだくれが道に転がってるかもしれないけど、道も分からぬ酔っ払いの目などどうだってよいのだ。それよりも幾分か風の通る格好であるべきだ。僅かばかり残された涼を求める。随分と粋じゃないか。

その日私は初めて、だらしない格好のまま外へ出た。ふらりふらりと光の無い京の街をさ迷い歩く。これじゃあすっかりと呆け者であるが、別に暑さに頭がやられてしまったわけじゃない。……と、信じたい。
ずっと憧れていたのだ。こうして外の目を気にすることなく、当てもなくふらふらと飛び出すことを。格式張った着物をいくつも身に纏い、お目付け役を何人も連れ回してようやく外へと出られる不自由さ。それだって、お目付け役が一言駄目だと言えばどれだけ光輝いて魅力的に見える処にも、足を踏み入れることはできなくて。同じような年頃の娘の、空を舞う蝶の如く気まぐれに出歩く自由は世間では持ち合わせて当然の、そして私は他の全てを擲ってでも得たかった細やかな幸福だ。この身体になって父の別宅に押し込められて、それでも昼間はやれ医者だ見舞いだと人の目がある。遷りたくないのなら放っておいてくれればいいのに、お節介にも遠巻きに見守ってくれているのだ。だからこそ、今しかない。誰もが寝静まった、深く更ける夜ならばこそ。

昼間に布を替えに来た下女から習った都々逸を口ずさみながら、瞬くような極楽を謳歌する。誰も居ない往来、出店も、そこに並ぶ一生自分じゃ買わないだろう小間物も、香ばしい匂いも、何もない。人気のない寂れた空間だと人は言う。それでもこの静けさが逆に高鳴る胸を落ち着かせた。楽しい、幸せだ。そう思いながらも恐ろしいほど冷静に、叢を飛ぶ虫の羽音すらも耳に捉えた。足を踏み出せば、ざっと土を踏む。ざっ、ざっとわざと音を立てて歩いた。右足、左足。踏み出す度に地を蹴る音が鳴る。もう一歩踏み出して止まる。ざっざっと、足音が二回。
…………二回?

「……っ!?」

ゆっくりと振り返る……間もなく、喉元に白刃が突き立てられた。首が切り落とされる、と思ったがどうやら無事のようで、寸でのところで刀は止まっている。

「君さ、何者?」

男だった。男の体格なぞ正直あまり分からないけど、かなり大きい方だと思う。羽織りにダンダラの白抜き。ああ、これが悪名名高い壬生の狼か。どうやらあらぬ疑いをかけられて死の瀬戸際に立っているのかもしれないのに、やはり暑さで頭がおかしくなってしまったのか、私は至って冷静だった。男の刀は、先ほどから微動だにしていない。よほどの剣の使い手なのだろうか。

「黙ってると斬っちゃうよ」
「お侍さんの刀を汚すほどの者じゃあありませんよ」

きっとこの人は私のことを怪しい人間だと思っているのだろう。……まぁ、こんな夜更けにこんな格好で歩いていたら確かに怪しい人物だ。まさか人に出くわすなぞ考えて居なかった。夜の町に繰り出す者もまだ息をしていたらしい。くわばら、くわばら。

「私はただの熱に浮かされた阿呆です」
「自分からそんなこと言う人初めて見たよ」

す、と彼は刀を引いた。けれど警戒の目は緩んではいない。どうしたものか。朝までに戻らねば、夜の徘徊が表沙汰になってしまう。それはよくない。非常によくない。あれこれと気を揉む人が出てくるのと、この夜の自由が奪われてしまう恐怖との両方だ。早急に私が人畜無害なただの通りすがりだと認めてもらわねばならぬ。

「見てくださいなこの格好。こんな格好で悪事が働けると思いますか」
「さぁね。男を誘い出すためかもしれないし? 間者は何にだって化けるものだよ」
「誠に残念ながら、私は本当に何でもない者なのです。こんな押し問答すら時間の無駄でしかないですよ」
「ふぅん、そう。じゃあ君はこれからどこかに行くの?」
「行く先など特に決めておりませんゆえ。ただの気まぐれな散歩です」
「こんな時間に散歩だなんてますます怪しいなぁ」
「仕方ないじゃありませんか、こんなに暑いんじゃあうっかりと寝てなど居られないのです」
「確かに今日は酷く暑いね。まぁ僕は夜の巡察だから関係ないんだけどね」
「それはそれは。ご苦労なことで」

精一杯の嫌味のつもりが、肩を竦めて返された。全く通用していない。
よくよく考えて見れば非道い話だ。少なくとも私は、道を外れるような所業は何一つ犯しちゃいないのに無実の罪を着せられている。あらぬ疑いを掛けられている。このまま私は斬られてしまうのだろうか。それとも吐き出す物も何もないのに拷問にでも掛けられるのだろうか。壬生狼を目の前にして残酷な予想はどんどん湧いてくる。されど怖いという感情はあまりない。これもこの暑い夜の所為だろうか。

カチャン、という音で私の思考は中断された。見ると、目の前の男は刀を鞘に収めていた。

「最初から君みたいな人が何か悪さをしてるなんて思ってないよ。あれだけ隙だらけで歩いているんだもの。罠かと思えばそうでもないし」
「私をからかってらしたんですか?」
「面白そうだな、とは思ったけど。あと、誰も見てないからってその格好はどうかと思うよ」
「いいじゃありませんか」
「そういう所が世間知らずって言われるんじゃない?」

世間知らず。
ごもっともな話だ。だって世間を知らない。見ないで生きてきたんだから。どうやって知れと言うんだ。それに私は、そういう型から飛び出したくて、飛び出したのに。
目の前の男は腹立たしいことに「送っていく」と言い出した。所作を取り繕うのも嫌になった。

「結構です。好き勝手に歩かせてください」
「じゃあ僕も勝手についていくよ」
「来ないでください。一人がいい」
「たった一人で歩くことが君にとっての全てなの?」
「知りません」

ああ、この閉塞感。
繋ぎ止められる感覚。
これが嫌なのに。歩く度に、男の足音が耳に付く。ざらりと肌を舐めまわすように、這い上がってくる腕に足を掴まれているように。軽やかだった足は重い。浮ついた心はどこかに行ってしまった。虫の声も、混濁して聞き取れやしない。

「お侍さんは、一体何がしたいんですか」

業を煮やして、わたしは立ち止まった。

「何が楽しいんですか?」
「あんまり楽しくはないかな。でも、ただ巡察するよりは楽しいよ」
「私は楽しくない」
「じゃあお喋りしようよ。そうすれは暇つぶしくらいにはなる」
「話すことがありません」
「なんでもいいよ。特に取り留めのないことを話すのが『お喋り』なんだし」
「お侍さんはそれが楽しいのですか?」
「楽しいよ。何もしないよりずっと楽しい」

暗闇でも、分かる。この人は今、ニンマリと弓なりに口を結んで嗤っている。

「二人で歩いたら、もっと楽しいかもよ」
「……私の行きたい所に、行かせてくれますか」
「どうぞ」
「なら、どうぞ」

こんな風に不遜な態度を取られて怒りやしないかと思ったが、別段腹を立てている風でもなく、私とこの人、隣というにはは遠く銘々にというには近い微妙な距離で歩き出す。見張られている、という感じでもない。好きな方に歩いていて、それが偶々同じ方角だった。それが最も正しそうだ。そしてそんな共歩きは、嫌ではなかった。これが、普通なのか。そう思うと段々楽しくなった。

「皆さん、こんな風に出歩くんですか」
「まさか。……でも偶に、こんな風に歩いてみたくなるんだよ」
「そうですか」
「そうだよ。それで、こんな風に誰かと話したくなる」

今、口火を切ったのは私だった。自然と言葉が出ていた。自ずと問いが出てきて、答えが欲しくて、けれど欲しいのは、応え。
本能の赴くままに飛び出した。浮かれて舞う蝶のごとく出歩いた。そして最後に、会うことを知った。話して、話されることは楽しい。
ずっとずっと私が求めていたのは、これだった。


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(14/09/07)
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